書評

2025年2月号掲載

嫌われ者「脂肪」の価値を再発見する

イェンヌ・ダムベリ、久山葉子 訳『脂肪と人類―渇望と嫌悪の歴史―』(新潮選書)

佐藤健太郎

対象書籍名:『脂肪と人類―渇望と嫌悪の歴史―』
対象著者:イェンヌ・ダムベリ/久山葉子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-603921-8

 米国では、新たな肥満症治療薬が非常な反響を呼んでおり、その年間売上は3兆円に及んでいるという。飲食に大金を払って脂肪を身にまとい、また大枚をはたいてその脂肪を削り落とすのだから世話はない。脂肪は命を縮める厄介者とは知りつつ、油をたっぷり使った食品の誘惑は、誰にとっても逃れがたい。
 体重増加の傾向が進むのは米国だけではなく、中国ほか先進各国でも肥満は急速に増えている。偉そうに書いている評者自身、腹についた脂肪をどうにかせねばと、ドタバタと情けなく運動を繰り返す毎日だ。
 人類にとってなくてはならぬ、それでいて最も疎ましがられる存在。本書『脂肪と人類―渇望と嫌悪の歴史―』は、その脂肪についての文化史、そして科学について綴られた一冊だ。その巻頭に登場するのは、大都市の下水道で発見された怪物「ファットバーグ」(脂肪の氷山)。トイレに流された使い捨てウェットティッシュの繊維が芯となり、料理店などから流れ込んだ油脂が固着して、地下水路に成長した硬く巨大な脂肪の塊だ。2017年にロンドンで発見されたファットバーグのサイズは、なんと長さが二五〇メートル、重さは一三〇トン。下水管が詰まる原因となる上にひどい悪臭を放ち、恐ろしい病原菌の巣でもある。この怪物退治のため、水道会社は清掃人八人を九週間かかりきりにさせる必要があったという。つまはじきにされた脂肪の呪いというべきか、それとも文明の動脈硬化というべきだろうか。
 かくも嫌われ者になった脂肪だが、実は白い目で見られるようになったのはせいぜいこの数十年のことだ。人類はその長い歴史の中で、ほとんどの期間を軽い飢餓状態で過ごしてきた。歴史上の人物の肖像画を見ると、でっぷりと太った人物はほとんどいなかったことに気づくだろう。基本的に、肥満は健康と富の象徴であり、人にうらやまれることであったのだ。実際、「目が肥える」「肥えた土地」など、肥えるという言葉はポジティブな意味合いで使われてきたし、「痩」という字にやまいだれが含まれていることからわかる通り、痩身は病的な状態を意味していた。スリムな体型が尊ばれ、太った体躯が怠惰と不健康の証拠と見られるようになったのは、せいぜいこの数十年のことに過ぎない。
 脂肪は化学構造としては石油などに近いものであり、極めて効率の高いエネルギー源となる。また、タンパク質などと違って細菌による腐敗も受けにくい。このため、食料の乏しかった初期の人類にとって、脂肪は生命のガソリンともいうべき貴重な栄養源であった。著者ダムベリ氏の出身地スウェーデンを含め、冬季には十分な食料の確保が難しかった地域では、食材としての脂肪の貴重さは日本の比ではない。二〇世紀に入ってもエスキモーは、冬に備えてトナカイの背中や内臓の脂肪を備蓄し、骨の中の骨髄まですすっていたという。
 また本書では、あまり日本では知られていないスウェーデンの食文化もたっぷり紹介されており、巻末には脂肪を生かした料理のレシピ集まで収録されている。確かに、紹介されている製法のベーコンやラードは実に美味そうで、これを一度味わうと工場で量産された既製品は食べられなくなるだろうなと思える。
 チーズなど乳製品についても、多くのページが割かれている。保存がきき、強い旨味を持つチーズは、まさに神の恩寵ともいうべき食べ物だったのだろう。科学的に見ても、チーズは旨味成分とカロリーの塊というべき食べ物だ。東洋でも、牛乳から作った酪や醍醐は至高の味とされてきたが、西洋のチーズ文化はやはりはるかに深い。
 こうした食文化の他、脂肪の科学的側面についても詳しく記述されている。脂肪はそれ自体の旨味とともに、水には溶けにくい香り成分を溶かしてその風味を強化してくれるというあたり、化学屋としてはなるほどなあと深くうなずかされる。飽和脂肪酸や不飽和脂肪酸、そして心臓病のリスクを高めるとして一時期騒がれたトランス脂肪酸などの是非についても論じられており、健康を気にする人には参考になるだろう。
 和食ではさっぱりした味わいが中心であり、食文化を語る際に脂肪が前面に押し出されることはあまりなかったように思う。しかし本書を読むと、和食においても和牛から背脂ラーメンに至るまで、脂肪の果たす役割は実に大きいことに改めて気付かされる。著者ダムベリ氏は来日経験もあるということだが、今度来ることがあったら、ぜひ上記の和食や、日本のアイスクリーム、チョコレートなども味わってもらい、感想を聞いてみたいと思う。日本の誇る大トロやスイーツの味わいを、彼女は何と評するだろうか。

(さとう・けんたろう サイエンスライター)

最新の書評

ページの先頭へ