書評

2025年2月号掲載

老舗バレエ団に怪しいお兄ちゃんがやってきた話

渡邊永人『崖っぷちの老舗バレエ団に密着取材したらヤバかった』

高部尚子

対象書籍名:『崖っぷちの老舗バレエ団に密着取材したらヤバかった』
対象著者:渡邊永人
対象書籍ISBN:978-4-10-355971-9

 今時こんなことを言うと怒られるかもしれないのですが、私は本当にネットやSNSというものには疎くて、いまだに自分では一切SNSをやっていないんです。日常的に見ているのは、ヤフーニュースについたコメントぐらい。ヤフコメって言うんですか、あれは読みます。
 18歳から45歳まで、谷桃子バレエ団でプリンシパルとして踊ってきました。今は芸術監督という立場で、ダンサーの指導をしたり、舞台の演出・制作をしています。
 私が現役で踊っていた時代にはインターネットこそあれ、今のように誰もがSNSで発信するという時代ではまったくなかった。だから、公演のお知らせ一つするにも、自分で書いた手紙をコピーして、そこに一言直筆でメッセージを書き、それをチラシと一緒にお客様のご自宅に郵送していました。宛名もすべて手書きだったので、公演前は母と一緒に夜な夜な作業をしていました。この頃はまだチケットノルマがあって、主役はチケットを100枚、自分で売らなければいけなかったので、こういうお手紙を数百枚は出していたと思います。
 それが今や、ですよね。なんという時代になったんだろうと思います。今はバレエダンサーもそれぞれSNSをやっていて、自分の踊りを発信したり、公演のお知らせなんかもできる。ファンの方との交流も盛んです。もちろん管理は大変ですが、良い時代になったなあと思いますよ。自分ができるかどうかは別ですけどね。
 チケットノルマをなくして、ダンサーには踊ることに集中してもらいたい。その上で「谷桃子バレエ団をチケットの取れないバレエ団にしたい」というのが夢でしたが、現実は客席を7割から8割埋めるのでやっと。広い劇場を満席にするには、団員の関係者や長年のバレエファンの方々以外の人にも劇場に足を運んでもらわないといけない。そのためにできることは何でもやろうと方法を模索していました。アナログ人間だから、と言い訳してはいられません。
 厳しい状況に追い打ちをかけるようなコロナ禍をなんとか乗り越えた矢先、運営スタッフから提案されたのが、この本のもとになった密着取材の企画でした。
 もちろんそれまでもYouTubeはやっていたのですが、チャンネルをリニューアルして今までとは違う会社に動画制作をお願いすることになりました。例として「進撃のノア」(編集部注※大阪のキャバ嬢密着チャンネル)の動画を見せられた時は、正直言葉を失いました。もちろん彼女達もプロフェッショナルとして素晴らしいお仕事をされています。とはいえ、さすがに毛色が違いすぎませんか、と。でも「どれだけ深く密着してもらえるかということが問題で、その結果『進撃のノア』の視聴者がこんなに増えたという実績に意味がある」と言われて、確かにそうだと納得しました。
 いざ密着が始まって、稽古場に初めてディレクターの渡邊さんが来たときは「どこのお兄ちゃんが来たんだろう」とちょっとドキドキしてしまいました。ビジネスマンっぽさはゼロで、かといってバレエの世界でも絶対に見かけない、今まで私の周りにはいなかったタイプの方です。
 撮影を始めるにあたって、当然「今日はこういうところを撮ります。ダンサーの○○さんに話を聞かせてください」という説明があるものだと思っていたのですが、まったくなく、いきなり自由に動き回っていることにも驚きました。「あれ、いなくなったな」と思ったら次の瞬間隣にいてカメラを回していたり、そうかと思うと女の子のダンサーを捕まえて話しかけている。
 何より予想外だったのは、こんなに私を撮るの? ということですね。「自宅撮影もある」とは聞いていたものの、芸術監督はある意味裏方ですから、まさか私の家に来るなんて思いもしなかった。インタビューで本音を話しすぎて炎上しかけたこともありました。でも、自分の言ったことは本心ですから、これで万が一バレエ界にいられなくなったとしても、まあいいやっていう気持ちでした。そのぐらいの覚悟で始めたので、後悔はありません。
 ただ、どれだけ動画が再生されても、それが実際にバレエ観劇に繋がるかというのは結果が出るまで本当にわからなかったんです。だから、昨年の新春公演「白鳥の湖」でチケットが売り切れた時は衝撃を受けました。当日、劇場のロビーは初めてお会いするお客様で溢れていて、それが何より嬉しかったです。
 そんなこんなで苦労も多かったわけですけど、もし今密着開始前の自分と話せるとしても、この密着を勧めると思います。だって何もしなかったら、いくらバレエを頑張ってもこんな風にチケットが売り切れることはなかったはずですから。渡邊さんにはまず、感謝の言葉を伝えたいです。
 この先も時代は目まぐるしく変わっていくと思います。今私が常識だと思っていることも、5年後にはどうなっているかわからない。変わらないものを守るために、必要な変化を恐れない自分でいたいですね。

(たかべ・ひさこ 谷桃子バレエ団芸術監督)

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