書評
2025年2月号掲載
私の好きな新潮文庫
一生ものの衝撃を与えてくれた三冊
対象書籍名:『変身』/『掌の小説』/『おれに関する噂』
対象著者:フランツ・カフカ、高橋義孝 訳/川端康成/筒井康隆
対象書籍ISBN:978-4-10-207101-4/978-4-10-100105-0/978-4-10-117105-0
人生の一冊をあげろと言われたら、新潮文庫の『変身』だ。「新潮文庫の」と限定するのには理由がある。「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら……」という言葉があるが、もし新潮文庫の『変身』がもう少し厚かったら、私は出会えていなかった。
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私は本を読まない子どもだった。中学生になった夏休み、読書感想文の課題があり、なるべく楽にすませたくて、文庫コーナーでいちばん薄い本を探した。それが新潮文庫の『変身』だった。当時は活字が小さかったので、今以上に薄く、背表紙のタイトルが読めるか読めないかくらいだった。普通なら他の短編も収録して厚みを足すところだ。実際、他の文庫はそうしていた。どなたなのかは知らないが、『変身』のみで薄い文庫として出してくれた当時の担当編集者さんに心から感謝している。あなたのおかげで今の私がある。
というのも、私は二十歳で難病になり、ふと中学生のときに読んだカフカの『変身』を思い出し、突然に虫になって部屋から出られなくなるのは今の自分と同じではないかと思い、読み返してとても感動し、そこから本を読むようになり、カフカにずっと支えてもらい、今ではカフカを翻訳したり本を書いたりする仕事をするようになったのだ。カフカを読んでいなかったら、難病になった衝撃に耐えきれたか自信がない。新潮文庫の『変身』が薄かったから、人生が変わったのだ。
きっかけがカフカだから、もっぱら海外文学を読んでいた。あるとき、『百年の孤独』のガルシア=マルケスが、川端康成を高く評価していることを知った。これは意外だった。川端康成は、伊豆の温泉で踊子といちゃついたり、雪国の温泉で芸者といちゃついたりしている人だとばかり思っていたからだ。首をかしげながら、新潮文庫の『眠れる美女』で表題作と「片腕」を読んで、飛び上がるほどびっくりした。海外文学の中でばかり宝探しをしていたが、日本にこんなすごい作家がいたのかと、『青い鳥』の教訓のようだった。とくに愛読しているのは『掌の小説』だ。これも、よく文庫で出してくれたものだと感謝している。新潮文庫にしかない。ごく短い掌編が集めてあり、いわゆるショートショート集のようなもの。これが何度読んでもすごい。とくに「心中」という作品は、完璧という言葉がふさわしい結晶のような作品だ。「ショートショートの神様」と呼ばれる星新一が「とても書けない。何度うまれ変ったって、これだけはむりなようだ」「こんな作品が古今東西ほかにあるだろうか。存在すべきでないものを見た思い」と書いているほどだ(「川端康成――「心中」に魅入られて――」『きまぐれフレンドシップPART2』新潮文庫)。
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本を読まない子どもだったと書いたが、ある作家だけは例外だった。それが筒井康隆だ。中学生のときに『おれに関する噂』を友達にすすめられて、夢中になった。こんな面白い小説があるのかと思った。筒井康隆は素晴らしいアンソロジーもたくさん出していて、本を読むようになってからは、そこで多くの作家や作品を知った。ハロルド・ピンターもル・クレジオも牧野信一も藤枝静男も……今の私にとって大切な作家の多くを筒井康隆に教わった。
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あるとき、ガルシア=マルケスの(またマルケスだが)「エレンディラ」という短編を読んでいて、すごいラストに驚嘆したあと、「あれ? これは読んだことがあるぞ」と思った。『おれに関する噂』に収録されている「心臓に悪い」という大好きな短編のラストとよく似ているのだ。「エレンディラ」が邦訳されたのは1983年で、はるか前の1972年に筒井康隆はこの「心臓に悪い」を書いている。雑誌掲載時には、ラストがぶっ飛び過ぎていてわけがわからないから書き直せと言われたそうだ。やっぱり筒井康隆は天才だなあとあらためて思った。
(かしらぎ・ひろき 文学紹介者)