書評
2025年2月号掲載
ここではないどこかを巡る旅
岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』
対象書籍名:『死ぬまでに行きたい海』
対象著者:岸本佐知子
対象書籍ISBN:978-4-10-105641-8
XがまだTwitterで、利用者のやりとりも平和で牧歌的だったころ、岸本さんのプロフィールに「家から出ません」と書かれていたのを覚えている。
私は岸本さんと年齢が近い。
社交的、行動的なことが良しとされ、家にいること、ひとりでいるのが好きなことは、なんとなく恥ずかしくて表に出してはいけない風潮のなかに身を置いて生きてきたひとりである。
「家から出ません」とか「一歩も地面を踏まない日がある」とか気負わずに言えるのはなんてカッコいいんだろうと、心を打ちぬかれた。
岸本さんは「ない」の人である。
たいていの人は「何々を食べた」「どこそこに行った」「誰それに会った」とエッセイに書くが、岸本さんには「買わなかった」「ボートに乗らなかった」などなど「ない」「なかった」で終わる文章がまあまあ多い。
本書の「YRP野比」の章でちらっと出てくる「行ったことがない」場所についての連載を雑誌でしていたこともある(昨年、白水社から出たエッセイ集『わからない』に収録され、岸本さんが脳内でつくりあげた幻ではないことが証明されている)。
『死ぬまでに行きたい海』は、いろんなところに「行ったことがない」「なかなか行こうとしない」岸本さんが、重い腰を上げていくつかの場所に実際に「行ってみた」エッセイ集である。
赤坂見附、多摩川、四ツ谷、横浜、海芝浦。上海とかバリ島とか遠方の土地も出てくるが、基本は東京もしくは関東近郊の、半日あればだいたい行って帰ってこられる土地が選ばれている。
初めての場所もあり、慣れ親しんだ場所を久しぶりに再訪することもある。初めての場所であっても、行くまでに時間がかかったさまざまな理由があり、行かなかった間にふくれあがった記憶の集積がある。
四年間の大学生活(四ツ谷)の思い出は三日分ぐらいしかないのに、すぐ近くの中学・高校生時代を過ごした街の裏通り(麹町)で母校のチャイムの音(キーンコーン、キンコンキンコン、コーンコーンコーン)が聞こえてくると、自分たちのころ(カン、カカカーン、カンカンコンキンコンカン)とは違うと即座に聞き分けられたりして、アンバランスなことこのうえない。
行かずに書いた場所の話も岸本さんの本領発揮で面白いが、実際にどこかに行って書いた話もまた、とんでもなく面白いのだった。
読んだ本のせりふが記憶にまぎれこんできたり、誤連結されたり、本当に行ったかどうか怪しい場所の記憶があったりするので、描かれているのが自分にとってなじみ深い土地であっても、ここではないどこかの、平行世界のよく似た土地であるかのような印象を受けるのだ。
父の故郷である「丹波篠山」を訪れたときの文章にこんな一節がある。
言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。
些細だけれども忘れがたい記憶。つねに自分のかたわらにあるものではなく、ある場所に立つことによって思いがけず不意に戻ってくる大切な記憶のかけらが、この本にはいくつも集められている。
翻訳家で、エッセイの名手でもある岸本さんは、たぶんこれまでにも、小説を書いてみませんかと何度も言われ、何度も断ってきたのではないかと思う。
今回、『死ぬまでに行きたい海』を再読して、これはもう小説だという確信を深めた。
エッセイでもあり、同時に小説でもある。エッセイとして始まったものが途中で小説になり、いつのまにかエッセイで終わっている、昆虫のメタモルフォーゼを見るような、奇妙な感覚を味わった。
いつのまにか異世界へと運ばれ、短い旅をしたあとで、気がつけばもとの場所に戻るようでもある。
スケッチ代わりに、岸本さん自身がスマートフォンで撮ったという写真がまたすばらしい。
ふつうなら写真は文章に描かれている場所の情景が現実のものである証明になるはずなのに、この本では逆に異世界への入口のような役割を果たしている。
(さくま・あやこ 文芸ジャーナリスト)