書評

2025年2月号掲載

松家仁之三ヶ月連続文庫刊行記念特集

贅沢な喜びをくれる作家

松家仁之『火山のふもとで』『沈むフランシス』『光の犬』

野崎歓

この魅力的なガイドを読めば読みたくなること間違いなし! 心の奥底を震わす三つの物語、待望の文庫化開始――

対象書籍名:『火山のふもとで』/『沈むフランシス』/『光の犬』
対象著者:松家仁之
対象書籍ISBN:978-4-10-105571-8/978-4-10-105572-5/978-4-10-105573-2

 小説を読むとき、ひとは何を求めるのだろう。たとえばそれは、波乱万丈の物語展開がもたらすスリルだろうか。「ページターナー」の語が示すとおり、夢中でストーリーの先を追わずにはいられない作品が昨今、もてはやされがちである。
 しかし猪突猛進だけが読書ではない。作中に描かれた世界にゆったりと身を落ち着け、文章の流れを心ゆくまで味わう。そんな贅沢な喜びがあることも確かだ。現代の作家でそうした愉悦を与えてくれる存在といえば、松家仁之の名が思い浮かぶ。繰り返し読むに値するその作品群が、ついに文庫化される。
 2012年に刊行された『火山のふもとで』は、長編第一作とは思えないほどの完成度の高さで多くの読者を瞠目させた。1980年代前半、世はいわゆるバブルに突入していこうとしていた。そうした時代を背景とするにもかかわらず、この作品はじつに端正な佇まいを見せている。心地よい、落ち着いた静けさが物語の基調をなすのである。
 村井設計事務所に所属する十名の建築家たちは、いずれもが「村井俊輔という建築家が黙ってつづけてきた仕事の非凡さ」を認め、心服している。物静かな「先生」のもと、事務所は静寂に包まれている。とはいえその雰囲気は気づまりでもなければ、堅苦しくもない。彼らは共通の価値観を抱き、同じ目標に向かって日々、ともに歩み続けることの喜びをわかちあっている。小説の中心部分をなすのは、毎夏、事務所の機能を移転させて過ごす北浅間の「夏の家」での日常だ。1982年に事務所に加わったばかりの「ぼく」の眼をとおして、「先生」および先輩たちの姿がういういしく描き出されていく。
 大学で建築を学んだ「ぼく」なのに、事務所に入ってみると、鉛筆の削り方や線の引き方から身に着けていかなければならない。先輩はあれこれの作法を言葉少なに伝授する。それが高圧的に響かないのは、いちいちの手順に合理的な理由があり、納得のゆく指示だからだ。「ぼく」ばかりでなく読者も、建築家の仕事がどういうものなのかがすっきりと頭に入ってくるような心地になるだろう。「夏の家」は理想の教室にして、快適な仕事現場である。国立現代図書館のコンペに向けて、ベテラン建築士二人がアイデアを競い、さらに「先生」の案が披露される。緊張をはらむ展開とはいえ、大声を出したり、居丈高になったりする人間はだれもいない。毎日寝泊まりして顔を合わせているのに、集団生活のうっとうしさが感じられない。シンプルながらよく考えられた三度の食事のメニューがとてもおいしそうだ。そして憩いのひととき、ターンテーブルに乗せられるベートーヴェンやモーツァルトのLPレコードからは、何と豊かな響きが聞こえてくることか。
 建築は芸術じゃない、現実そのものだよという「先生」の言葉が何度か引かれている。設計事務所の面々にとって、建築は生活そのものだとも言えるだろう。しかも「夏の家」があるのは標高千メートルを超える地点だ。清々しい空気が小説を満たしている。外からは鳥や虫の鳴き声ばかりが聞こえてくる。ここは楽園かとさえ思える。しかもどうやら先生に気に入られたらしい「ぼく」の前には、二人の魅力的な女性が現れ、彼はそのいずれとも徐々に心を通わせていく。事務所内での恋愛はご法度という不文律を、ひょっとして新入りの「ぼく」は大胆にも踏み越えようとするのだろうか?
 これはコンペの、そして男女の関係の行方をめぐって、平穏に見えながら水面下に大きなうねりを隠した小説なのだ。ストーリーが進みゆくに従い、高原の静けさがいよいよ胸に染みてくる。そして過ぎた季節への哀惜の思いもまた募っていく。
 翌2013年に刊行された第二作『沈むフランシス』では、のっけから異様な光景が提示されている。どこかの川を、闇の中、だれかの身体が流されていく。そもそも題名からして謎めいている。前作から一転して挑戦的な、スリリングな企みが仕掛けられているのだ。
 主人公の桂子は、非正規雇用で郵便配達の仕事をしながら一人で暮らしている。その彼女が、やはり一人暮らしらしい和彦と知り合い親しくなる。やがて、三十代の二人が睦みあい、ベッドで体を絡ませあうしどけない様子まで描かれる。そうしたシーンには踏み込まなかった前作の慎ましさとの大きな違いだ。とはいえ、静謐を希求する姿勢はひときわ強まっている。
 何しろ桂子は、東京で会社勤めをしていたのに同居相手と別れたのち、思い立って職を辞し、はるか遠い北海道にやってきて、「枝留」という小都市からさらに離れた村に移り住んだのである。都市の喧騒に背を向け、川がありクマやシカのいる自然の中での暮らしを求めての移住だった。和彦にもまた、どこか隠者のような気配がある。「撫養」と「寺富野」といういずれ劣らず珍らしい姓をもつ孤独な男女の恋愛に絞り込んだ物語だが、不思議と閉ざされた印象を与えない。むしろ何か悠久の時に心を開いていくような趣きがある。
 和彦のベッドルームに黒曜石の矢尻や石斧が置かれているのは、ただの飾りではない。「千年万年」の昔にもこの地の森で暮らした人間がいた。原生林で木の実を拾い、獣を狩って暮らしていた者たちとのつながりが想起されるとき、個人を超えた次元が広がり出す。そんな雄大なパースペクティヴのうちに二人の物語は書き込まれている。
 他方、和彦がテクノロジーに魅せられた男である点も興味深い。オーディオに関する蘊蓄は病膏肓に入るほどのものだ。しかも彼は録音マニアで、世界各地で録音した種々雑多な「音」を最上級の装置で再生して悦に入っている。そこに一抹の浅はかさもにじむとするなら、やはり作品の主人公とみなされるべきは桂子である。クライマックスに至り改めてそう実感させられる。和彦と桂子は戸外の真っ暗闇の中に二人きりでいる。そこで桂子はいったい何をつかみ取るのか。至上の――沈黙の――音楽が鳴り渡るような瞬間が読者を待っている。
『沈むフランシス』がもたらした「北」のテーマは、『光の犬』(2017年)に受けつがれ、ひときわ大きな展開を見せることとなった。助産婦をしていた「よね」は関東大震災後、「北海道へ行きなさい」と恩師に言われて「枝留」に移り住んだ。そこから始まる添島家三代にわたる物語である。そして何代にもわたって飼われ、一家に寄り添い続けるのが「北海道犬」たちだ。
 北海道犬とはかつてはアイヌの狩猟犬であり、二十世紀前半には天然記念物に指定された貴重な純粋種である。作中では犬たちの様子が何とも魅力的に描写されていて、たとえ猫派の読者であろうともたまらなく愛おしくなってしまうはずだ。仔犬のころの、「乳くさいような甘い匂い」をたてて「パラソルチョコのよう」な尻尾をふる可憐さといったらない。成犬となってからは、ヒグマを相手にして一歩も引かないほどの頼もしい風格を示す。人間たちの忠実なしもべでありながら、犬たちは人間を超えた力を秘めてもいる。音や匂いへの驚くべき敏感な反応はそのことの表れだ。
 そんな彼らにだれよりも懐かれ、慕われているのが「よね」の孫にあたる添島歩である。歩は『沈むフランシス』の桂子を引きついで、松家作品にとって理想の女性像を示す存在といっていい。桂子は雪が降りそうな気配を敏感に察知する女だった。歩もまた「雪が降りだすまえに匂いをかぎつけ、『雪のにおい』と誰にともなく言う」。そこには雪の象徴する純粋さや静謐、そして北海道犬の無垢に通じるような資質が表れている。北海道犬たちと彼女を結ぶ絆はあまりに親密で切なくなるくらいだ。
 そもそも、添島家の面々の命運をたどること自体が切ないことなのである。「添島始は消失点を背負っていた」。これまた印象的な、謎めいた書出しの一行だが、「消失」の定めを負うのは歩の弟である始ばかりではない。人間だれしも、時のもたらす破壊的な力にさらされながら生きている。そのことを長編はさまざまな形であぶり出していく。
 しかし、悲痛な事態に際して明晰な感覚が張りつめるところに、松家仁之の文章の曇りない抒情性を感じる。そうした印象には、北の地ならではの澄んだ冷気も大いに寄与している。さらに、キリスト教伝道の地としての北海道の歴史が物語のなりゆきに深く関わっている点もこの作品の特徴だ。「神が『光りあれ』と言ったのはなぜかしら」女子学生のころに歩が発するそんなせりふが違和感を与えないのは、日本の小説としてじつに珍しい。そう彼女が訊く相手は、教会の牧師の息子・一惟である。幼馴染の二人の間柄は、彼らがそれぞれの人生を歩み出したのち、どうなっていくのか。その展開は最後まで読者を引きつけてやまない。
 著者の新作として、『天使も踏むを畏れるところ』の刊行が予告されている。『火山のふもとで』の「先生」こと「村井俊輔」の若かりし頃を描く内容で、これまででも最も分厚い一巻となるらしい。松家仁之のロマネスクな世界は着実に拡大と深化を続けてきた。文庫版でその軌跡を辿りながら、雄編の登場を待ちたい。

(のざき・かん 翻訳家)

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