書評
2025年3月号掲載
グローバルな視点から見た「倭寇」の正体
岡本隆司『倭寇とは何か―中華を揺さぶる「海賊」の正体―』(新潮選書)
対象書籍名:『倭寇とは何か―中華を揺さぶる「海賊」の正体―』
対象著者:岡本隆司
対象書籍ISBN:978-4-10-603922-5
「倭寇」が14―16世紀の海賊だということは、学校の歴史でも習うことだ。前期倭寇は主として「日本人」からなる集団で、朝鮮半島を含む黄海沿海部で活動したのに対して、後期倭寇は東シナ海を中心に猖獗を極め、彼らは華人も多い多(無)国籍的な集団だったということも、少し勉強した人たちは知っているだろう。だが、その人たちの実像となると、なかなかイメージがわかない。
海洋では国家が暴力の行使を独占するのは陸上よりずっと難しい。現代でも武装集団に出くわしたからといって、警察を呼べばすぐに来てくれることは期待できないから、沿岸国の監視が行き届かない一部の海域で海賊は出没しており、船舶の乗員を人質にして交渉の上で身代金を獲得する半ば近代的なビジネスになったりしているくらいだ。
だからかつて貿易を生業とする人々にとっては、集団で武装して自分の身は自分で守るというのは、生き残りのための常識にすぎなかった。とりわけ倭寇が活発化した室町時代の日本のように中央政権が弱体な場合は、略奪をする集団も増えるのは事実だろうが、海賊行為と民間貿易の区別は現実には截然としないことも多い。
その民間貿易だが、モンゴル人は商業を振興したので元時代には東アジアでも大いに発展した。しかし、漢人による「正統王朝」である明王朝は一挙に閉鎖的かつ差別的な華夷秩序へと内閉し、貿易も朝貢貿易に限定し民間貿易を禁止する「海禁政策」を採用した。今日観光名所になっている万里の長城は、明時代に改修強化されたものだが、海にも万里の長城をつくろうというのが、明の公式の政策だったのである。
しかし実際に明朝政権がこういった観念的原理を中国社会の末端にまで強制できたかどうかは、まったく別の話だ。国際貿易はすでに中国の経済生活の重要な部分に成長しており、これはまったく非現実的だった。貿易を生業とする華人の中には、倭人との間で脱国家的な「華夷同体」が形成されていて、彼らは実態に合わない中央の制度を無視できる時には無視し、あるいは役人を買収したりして折り合いをつけたりしただろうが、時には武力をもって反抗するようにもなった。これが「倭寇」だというのである。つまり「倭寇」というのは、あくまで中国の王朝側の用語法にすぎず、ハリウッドの映画に出てくるような髑髏の旗をなびかせて商船を襲う、冒険的略奪に特化した集団を連想したのではその正体を見誤る。
さて、ここまでなら普通の歴史の話だが、著者の真骨頂はこれからだ。「倭寇」は17世紀に入ると収束したとされるが、実は「倭寇」は中国を動かし続けてきたと著者は分析する。考えてみれば、中国史とは、歴史上の「倭寇」が登場したころからずっと、「中華思想」にもとづいて国家を一元支配しようとする王朝勢力と、海外勢力と結びつき時には反乱の主体にもなる「華夷同体」という脱国家的な勢力との間のせめぎあいではなかったのか、というのが著者の見立てだ。欧米と組んで政権を取ろうとした蒋介石も、ソ連と組んだ毛沢東もそう見れば「倭寇」なのではないか。権力闘争に勝利して自身が「皇帝」になった毛沢東は、今度は自力更生という中央の建前を無理やり強行して、大躍進計画や文化大革命という大惨事を引き起こした。それに対してトウ小平らの「走資派」や「実務派」たちは、欧米や日本と組んで、外資や技術を導入し大成功を収めたが、どうやらこれで話は終わりではない。欧米に逃げ出したがる富豪たちや欧米と組んで自治を求めるチベットの亡命政権、取るに足らない少数派だがイスラム教を信仰するウイグル人、さらには欧米流の民主主義という危険思想にかぶれた香港の若者たちが、中央にとっては皆倭寇なのだ。確かに香港の一国二制度を露骨に反故にして、「台湾統一」という建前を強引に推し進める習近平の姿を見ると、いつか来た道のように見える。
私のような国際政治学者は、国家という確乎たる実体があることを前提に、世界を見てしまう癖がある。ちょうど経済学者が市場が正常に機能することを前提に経済を見るようなものだろうか。だが、中国の内部には常に強い遠心力が潜在している。あれほど巨大なのに、外部の勢力と組んで自分たちの権力を脅かす「倭寇」「漢奸」「買辦」を、中央政府が病的なほど恐れるのは、そう考えると了解できる。
だとするとこれは中国に固有の力学ではなく、巨大帝国一般に当てはまるかもしれない。例えば中国以上に人口が多い上に民族構成が中国よりもいっそう多様なインドはどうなのだろうか? もし中国に固有なものがあるとすると、それは何なのだろうか? 無理難題なのは承知の上だが、一国史を超えてグローバルな歴史像をキャンバス一杯に描いてくれる著者に刺激されて、こんなことを尋ねてみたいという気持ちがしてくる。
(たどころ・まさゆき 国際政治学者)