書評

2025年4月号掲載

特別企画 ガブリエル・ガルシア=マルケス、鼓直 訳『族長の秋』をめぐって

独裁者という鏡

大江健三郎

昨年大きな話題を呼んだ『百年の孤独』に続いて文庫化され、やはりたちまち版を重ねている『族長の秋』。このガルシア=マルケスのもうひとつの傑作を丁寧に読みほぐした名論掲載!

対象書籍名:『族長の秋』
対象著者:ガブリエル・ガルシア=マルケス/鼓直 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-205213-6

 ガブリエル・ガルシア・マルケスの『族長の秋』El Otono del Patriarcaについては、その各章ごとに繰りかえされる、一般的な語り口の導入部から、しだいにその語り口そのものが複雑な層をなして迷路のようにつづく、記述の「かたち」こそを分析しなければならぬだろう。原文を読めぬ僕にはそれをすることができない。英訳(ハーパー・アンド・ロウ版)から想像を働かせるのみだが、しかし僕がもっとも深くこの小説によってひきつけられる、魅惑の中心にはそれがある。スペイン語の専門家たちに、この隔靴掻痒の思いを解消してもらうことを望んでいる。
 そこでその次に位置するというか、英訳でもかなりはっきりとらえられる問題点から、あらためてこの小説を読みとろうとすると、わずかながらラテン・アメリカの世界のなかで暮していた日々の、生活の細部にまつわる思い出とそれがむすびつく。僕はそのメキシコ滞在中に、ガルシア・マルケスと会ったのでもあるし、アパートの兵隊ベッドでは、様ざまな翻訳の『百年の孤独』を繰りかえし読んでは、英語であれ仏語であれ、孤独という意味の言葉に出くわすたびに(マルケスは音楽において主題の音の組合せをもちいるような仕方で、この言葉を有効・確実に使うが、それも手さぐりするようにいえばsoledadというもともとの言葉で書きつけられているのを読む時、もっともその衝撃力は強いであろうと思われたが)、子供のころよく感じた、氷の切れはしかなにかのように消えてしまいたいような、圧倒的なsoledadの思いをあじわったのでもあった。
 僕をマルケスの所へつれて行ってくれたのは、ラテン・アメリカ文学研究者で大学の僕の同僚であった。この初老のアメリカ人はマルケスの初期のリアリズムの(とかれがいうのを聞いて、僕はなんとなくアメリカのプロレタリア文学のことを思ったが、後に読んだ『落葉』はすでにマルケス独自のものにちがいない達成であった)、すなわち『百年の孤独』における大きい変貌より以前の作品をじつは好むのだといっていた。マルケスの結婚式にも参加した古い友達のかれとして、いま世界的なマルケスへの翳りのある思いもからんでいよう。
 マルケスはあの巨大なメキシコ・シティの(『族長の秋』のなかの、ばかでかく悲しいという形容句が思いうかぶが)、それも南端の住宅地に高い塀にかこまれた、わずかに樹木のある中庭つきの家に住んでいた。まだ整備中で、かれの小説のなかの女性像を思わせずにいない、スペイン的な大様さの夫人が労働者に庭で指図をしていた。その塀の前まで迎えに出てくれたマルケスは、シティの中心からはずれるほど加速度的に乱暴になる、メキシコの交通事情を気に病んで、しきりに僕を保護してくれたものだ。――この道すじで昨日は日本人が三人轢かれた! というような軽口を発して。
 さきにいった中庭、つまりpatioをへだてる木工の仕事場のような書斎で、大きい(なんとも大きすぎる)タイプライターを、机の真んなかに障害物のように置いて、マルケスは屈託ない笑顔を見せたが、かれの椅子からもっとも手を伸ばしやすい棚にブリタニカの揃いが置いてあるのは、『百年の孤独』の読者にとって、やはり笑顔をそそられる組合せであった。実際にマルケスは、百科事典をよく読むのであるらしい。そこでわれわれは、作家には二種がある、百科事典を読む者と読まない者と、というやはり軽口めいた、しかし本気でもある同意に達したのである。
 屈託ないといったが、もとよりそれは笑顔の表層でのことで、マルケスがあのころ現にひきうけていた課題は、大きく重いものだった。その翌日、キューバへ発つはずのマルケスは、ケネディ政権による核脅迫がらみの、大包囲の時期について書こうとしているが、そのためにデフォーの『疫病年代記』を読みかえしているのだといった。その構想について(それが実際に結実したかどうかを、いまの僕は知らないが、作家にとってなにごとかを構想する期間、頼りになる書物の手がかりは、それが書きあげられたものに直接反映しているよりも、むしろそうでない時、かえって真に重要なものだったと、自覚されることもある)、僕はわが国の文学者の例をあげて賛同の意見をのべた。つまり大岡昇平が、やはりデフォーの言葉をひいて、俘虜としての「監禁状態」を描くことをつうじ、戦後日本の、より大きい「監禁状態」を表現したということを。マルケスはブリタニカを調べて、まだかれの名がのっていないその版に、この日本の戦後文学者についての確実な記事と、それに奇妙な逸脱のように感じられたものだが、ついでに僕の名まで見出して、面白がったものだ。
 僕としては数年をかけて書く小説の、いままさに書きはじめようとしていた構想を話した。そしてこの年の暮、僕はその第一稿を終えようとしているところだが、あのメキシコ滞在時には、まだ構想自体が五里霧中であったのである。それをすばやく見てとって、マルケスは『百年の孤独』につき、自分の家族に起ったことがらを日記を書くように書きはじめて、それを積みかさねていったのだと、きみもそのように始めればいいのだと、いかにも的確に励ましてくれた。そこで僕は、マルケスの世界のすばらしい母性、『百年の孤独』のウルスラ、『族長の秋』のベンディシオンに比較することはもとよりできぬのではあるが、自分の老母の語り口による森のなかの村の歴史に、子供の時分から影響をうけており、今度はじめて綜合的に、小説にそれを生かすつもりだというと、彼女の語ったことをひとつ話すように誘った。それを聞いてマルケスはおおいに笑い、僕の持っていた仏訳の『百年の孤独』に、母親あての献辞を書きつけてくれた。
 ……これまで書いたことは、『族長の秋』とは直接に関わらぬ。ただラテン・アメリカ圏で、そこを代表する作家と暮した一日の思い出と、『族長の秋』の特質をなす、さりげない日常的な噂や軽口をそのままとりあげ、それに巨大な暗喩としての想像力世界をになわせてゆく、マルケスの方法を考えようとして、右にのべたことを書きつけたい心を持ったのである。
 僕が光をあてたいのは、こういう特質だ。海兵隊の基地か、制海権か、というたぐいのアメリカ大使館の威嚇はラテン・アメリカのほとんどあらゆる国にむけおこなわれてきただろう。そのひそかな噂、あるいは公然と新聞に印刷される報道。しかしそれは一般の民衆への投影においては、マルケスがそこに立っておこなう、次のような想像力による飛翔をつうじて、はじめてよく実体化するのではあるまいか? アメリカ大使の海事関係技師たちが海を持ち去ってしまう、分解し番号をふって、アリゾナの血の赤さの夜明けの中へ。しかもそれを語りつつ、鳥をあきなっていた母親ベンディシオンの魂への、独裁者による呼びかけの文脈を導入することで、このイメージは独裁者の内部とのつながりともどもリアリティーを加えるのである。
 この小説についてそのなかのとくに驚くべきシーンと喧伝された、富くじの秘密を知った子供らが大量に船上で爆破される挿話も、そのなりたちの根柢には、箱のなかの熱い玉を、ふつうの玉から手さぐりで選びわけ、八百長をおこなうという、やはりラテン・アメリカの日常生活のなかに、ざらにありそうな思いつきにおいて、まずひとつのレヴェルをしつらえ、それが子供らの大量虐殺という凄まじい暗喩への展開へいたるゆえに、リアリティーがもたらされていることをいうべきであろう。
 独裁者と女たちとの関わりの記述も、右にあげたふたつのレヴェルの多様な照応のさせ方が、効果をあげていたのだ。独裁者は妾たちの家のひとつを不意うちする。裸になるいとまもないどころか、ドアを閉じることすらもせず、女は子供らにこれはおまえたちの見るものじゃないと叫ばねばならず、犬はクンクンいい、独裁者がベッドでたてる音は家じゅうに鳴りひびく。あるいはまた独裁者が、その生涯の女性にめぐりあう仕方にしても、それらは独裁者についての粗野な噂話をそのままにコラージュしたようでありながら、そのいちいちのシーンが、そのまま想像力的なもうひとつのレヴェル、神話的なレヴェルをきざみだしてゆくのである。暗喩、象徴そしてその組織されたものとしての神話という想像力論の考え方を、マルケスはいかにもリアリティーにみちた仕方で納得させるのだ。それはあるいは独裁者の側に立って、あるいは独裁者にさからって、繰りかえしおこなわれるゴシック小説風の暗殺、虐殺についてもっともあきらかであった。
 小説導入部の骨組をなす、独裁者の「再生」ということにしてからが、そのような二重のレヴェルによって構造づけられることで効果をあげている。小説の読み手はまず、独裁者のさきの死と、それにつづく「再生」によって教訓をえた民衆にとり、あらためてのかれの死が、なお疑惑をもってむかえられているという、神話的な情況において、死と「再生」の主題に出会う。その段階では、われわれはまさに暗喩、象徴そして神話の光のなかに独裁者を見ているのである。それがすぐさま日常的にありうることのレヴェルへとひっくりかえされる。(それが独裁者の身の上におこることがらである以上、民衆にとっての日常性とは質がちがうけれども。)影武者の死と、それを契機にした独裁者の死の仮装、それにつづく報復にみちた「再生」。いったんそのように種あかしされれば、この独裁者の死と「再生」は、やはり市井で独裁者を種にして語られる冗談のレヴェルにかさなるものだ。しかもこの段階で、第二のレヴェルと第一の神話レヴェルでの死と「再生」が、ロシア・フォルマリストの用語をもちいれば、「異化」しあっているのである。
 このように見てくれば、『族長の秋』が、ラテン・アメリカの民衆の生活における軽口、冗談あるいは法螺話、そうしたものの反映としての噂、デマのレヴェルでとらえた独裁者と、暗喩、象徴そして神話のレヴェルでとらえた独裁者とを、およそマルケス独自の話法によって、ひとつの構造体に表現している、そのあり様はあきらかであろう。しかしなぜ独裁者が、小説の主題に選ばれるのか。独裁者はどのような役割をになって選ばれているのか?
 フレドリック・B・パイクの『スパニッシュ・アメリカ』(トーマス・アンド・ハドソン版)に、つまり1900年から1970年にかけてのラテン・アメリカの歴史を語った本に、僕にはとくに印象の強い一葉の写真と一枚の絵とがのっていた。ひとつはその死後二十年なおアルゼンチン人の敬愛を集めている(彼女を聖列に加えることがもとめられるほどに)、かつ片方ではそれに対抗する熱心さでヴェールをはぎとることがおこなわれている、とパイクの書いた、エヴァ・デ・ペロンの肖像である。白い衣裳に身をつつむ輝やくように豊かな金髪のエヴァは、崇拝者の幼ない娘の手にキスしている。
 白血病で死ぬことにより、その伝説を完成したエヴァ・デ・ペロンのことこそを、ペロンの帰国とそれにつづいた死、そして亡命生活をともにした新しい妻がその後に経験した、栄光と恥辱の激しい波立ちをあらわす外電を見るたびに、僕は思い出さざるをえなかった。ペロンもその新しい妻も、短い間ながらかれらが再び近づきえた権力の座において、しかし独裁者としての真に神話的な力については、それを望みえなかったと僕は思う。掛け値なしの独裁者の神話は、死んだエヴァ・デ・ペロンがかすめとって、アルゼンチンの民衆の想像力の天空をひとり埋めているのだから。そしてそのような存在こそは、ガルシア・マルケスの文学の世界にいかにも近いものであろう。
 もうひとつは、大きい油絵からの写真版で、それは最近わが国でも、まるまる肥った人間を描く素朴派風の画調が人気を呼びはじめたのらしい、フェルナンド・ボテロの絵であった。ほかならぬマルケスの母国コロンビアの大統領一家が、そこに描かれている。隅に画架を立てたボテロ自身を描きこむ、その構図があきらかに示すように、ボテロはゴヤを念頭においている。ゴヤの諷刺力を希求しながら、かれはこのやはり誰もかれもが丸っこく肥っている絵を描いたのだ。大統領とその妻、老母に娘、そしてかれらの足もとの黒猫までが肥りにふとっている。そしてやはり肥った将軍と司教とが、プレジデンシャル・ファミリーの構成を補完している。この絵もまた、いかにもガルシア・マルケスの剽悍なユーモアをふくんだ、政治的な把握と表現の、その挿絵のようであることか。
 ラテン・アメリカはやはりこの地上の、他のいかなる地域ともちがうと、エヴァ・デ・ペロンのスナップ写真や、フェルナンド・ボテロの絵をつうじてはっきりイメージ化することのできる、そのラテン・アメリカの独裁者を、マルケスは民衆の日常的な軽口や冗談、法螺話のレヴェルでとらえた。つづいてラテン・アメリカの総体をおおうほど大きい暗喩、象徴そして神話のレヴェルにおいて、その独裁者をとらえなおして、構造づけた。しかしあらためて考えてみれば、マルケスはラテン・アメリカの情況の外に孤立した知識人として、そのような神話の組み立てに励んだのではなかった。ただ一個の暗喩なりと、民衆の側の軽口や冗談、法螺話のレヴェルをくぐらせることなしにつくりだすことを、マルケス自身が容認しなかった。
 そこでマルケスの独裁者の、大きく暗く荒あらしい、神話的な像を見るわれわれの眼は、それを鏡としてそこに映るラテン・アメリカの民衆の全体を見ることになる。作家の最大の野心とは、かれの同時代の総体をとらえることであろう。そこから類推するようにして、マルケスがラテン・アメリカの現代をとらえるもっとも有効な媒介物として、独裁者を設定したのだ、と整理する。それもあながち過度の単純化ではないであろう。キューバの大包囲の時期のもっとも凶々しい力をとらえるため、媒介物としてペストを置くのとパラレルな意味で。
 しかし具体的な表現としてマルケスがなしとげたところの、暗喩、象徴そして神話としての独裁者の像は、対置される日常的な軽口、冗談、法螺話のレヴェルの独裁者像による「異化」の光をあびて、陰翳の濃く深い層をそなえている。その深淵にラテン・アメリカのすべての民衆が沈みこんでいるように、この巨人のかたちをした鏡を覗く眼には見える。しかもこの同時代のラテン・アメリカ世界への地理的な拡がりをカヴァーした小説が、時の流れの軸にそってやはり同時代をつつみこむ『百年の孤独』と同じように、いかにも個人的な切実な声を発している。
 その声の主調音は、『百年の孤独』においてsoledadと繰りかえしたように、『族長の秋』ではotonoと繰りかえす。独裁者の人型を切りぬいて、夜の海をはめこんだような鏡のなかに映っている、ラテン・アメリカの全体と民衆を見わたしながら、他に言葉もなくotonoと書きつける、これは思い出のなかの屈託ないかれとはちがう、暗くかげったガルシア・マルケスの顔を僕は幻に見る。otonoとは、かれの母国コロンビアでどのような季節なのだろうかと、あいかわらずの手さぐりのうちに。

初出:「海」1979年2月号
所収:『新装版 大江健三郎同時代論集 10 青年へ』(岩波書店)

(おおえ・けんざぶろう)

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