書評
2025年4月号掲載
様々な呼び名で呼ばれる私たちへ
吉川トリコ『裸足でかけてくおかしな妻さん』
対象書籍名:『裸足でかけてくおかしな妻さん』
対象著者:吉川トリコ
対象書籍ISBN:978-4-10-472504-5
これは私たちの物語だ。妻、母、娘、姑、恋人、愛人、色んな名前をつけられてどこかで生きている、私たちの物語。
吉川トリコ氏の新作長編『裸足でかけてくおかしな妻さん』には、私が今までに抱いた様々な心の揺らぎが描かれていた。きっと女性として現代を生きるほとんどの人が、物語のなかに自分をみつけられる作品なのだ。
小説家の金村太陽の愛人として子供を身籠った楓は、太陽の妻が住む岐阜の山奥の本宅で、太陽と妻の野ゆりと三人で暮らすようになる。しかし太陽は楓が引っ越してすぐに東京に戻ってしまい、楓と野ゆりのぎこちない二人暮らしが始まった。ある秘密を抱えながらひっそりと暮らす楓だったが、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる野ゆりとの間に、少しずつ不思議な関係が築かれるのだった……。
三章構成で進む本作は、第一章では楓の物語、そして第二章では野ゆりの物語が語られる。楓がなぜ太陽の愛人となったのか、夫の愛人を拒絶することもなく受け入れた野ゆりがどんな人生を送り、太陽の妻となったのか、そして、野ゆりはどうして家に愛人を受け入れる提案をしたかが少しずつ明かされていくのだ。私たちは日々の生活のなかで、様々な人と出会う。恋人、妻、夫など、何らかの名称で呼ばれる彼らも、人生のどこかでその肩書を与えられ、暮らしている。そんな経緯に思いを馳せたくなるのも、この作品の特徴だろう。
作中で、太陽と出会う前の楓の語りの中に印象的な一文があった。
“みんな自分を粗末にしたかったんじゃないか”
母から無添加無農薬の「ほんものの食べ物」しか与えられず、自分の体は母のものだと思っていた息苦しい生活から逃れようと東京に出てきた楓は、実家ではできなかった堕落した生活を送っていた。大切にされてきた自分を自ら粗末にすることで、私の体を好き勝手にできるのは自分だけである、私という存在は私のものであると証明したかったのだ。大事にされたいはずなのに、大事にされ続けると苦しくなる。そこに愛があるのはわかっているけど、それが本当の愛なのかわからなくなってしまう。評者である私自身も、自分を粗末にしてしまう瞬間がある。粗末にしたら自分が傷つき、心にぽっかりと穴があくような寂しさが残るだけなのに、やめられないのだ。
彼女たちの生き方を読み進めるにつれ、何度も「私たちは誰のもの?」と問いかけられているようで、この私も誰のものなのだろうと胸の奥がざわついてしまった。私は、何を以て私であると言えるのだろうか。女優、劇団員、YouTuber、インフルエンサー、妻、娘。様々なコミュニティのなかに生きて、様々な肩書で呼ばれていても、私という存在そのものがわからなくなる瞬間がある。実際にその肩書を名乗っても、どこか余所余所しさを感じ、私は誰なんだろう、誰のものなんだろう、どこにいるのだろう、と考え心がずっしりと重くなることがあるのだ。殆どは自ら選んで決めた呼ばれ方のはずなのに、たまに訳のわからない寂しさに苛まれてしまうのは、ただのわがままなのだろうか。私は私として、生きていたいだけなのに。
楓と野ゆりというふたりの主人公は全く違った立場のようにみえて実は似たもの同士なのかもしれない。心を開いた楓は野ゆりに対し、野ゆりは誰のものなのか問う。楓の期待に応えて、だれのものでもないと答えた野ゆりだったが、本当は自分が太陽のものであると自覚していた。専業主婦として夫の稼ぎで生活をしている野ゆりと、月に一定の小遣いを太陽から貰い彼の仕事場に住み着いていた楓は、二人とも、太陽からお金を貰って生きている限り、太陽のものなのだ。その現実を理解し、諦めきっている野ゆりの返答がとても切ないものにみえた。
三つの章のタイトルは「楓」、「野ゆり」、「私たち」と並んでいる。ラストの「私たち」には、物語の主軸となる楓と野ゆりはもちろん、太陽の母の紘子など、この作品に登場する女性たち、そしてこの作品を読んでいる読者である私もきっと含まれている。ゆったりと進んでいく彼女らの生活。穏やかな時間はいつまでも続けばいいけれど、自分が自分のものではないままの暮らしへ対する息苦しさに、楓は気付いていた。心にわだかまりを抱きながらも、その場所に留まることも出来たはずだ。しかしながら、今いる環境を抜け出して、苦しくても踏ん張って、私は私のものであると胸を張り、生きようとする逞しさが彼女にはあった。ラストシーンの爽快さは、まるで読者の私たちをも新たな世界に連れ出そうと、こちらに手を差し伸べてくれているようだった。きっとあの高揚感はいつまでも、多くの読者の記憶に刻まれるだろう。
(さいとう・あかり 女優)