書評

2025年4月号掲載

逸脱から始まるルネッサンス

マキタスポーツ『グルメ外道』(新潮新書)

稲田俊輔

対象書籍名:『グルメ外道』
対象著者:マキタスポーツ
対象書籍ISBN:978-4-10-611081-8

 腹が減ったらメシを食う。そのメシがうまければ、こんなに幸せなことはありません。人類史の大半において、人は常に飢餓と隣り合わせでした。しかし今の日本は決してそうではありません。おおよそ誰もが、うまいもので腹を満たす自由を手に入れています。
 うまいものを食う自由が極まったのが、グルメという概念です。生命維持のための栄養補給という目的を遥かに超え、様々な叡智が自由闊達に駆使されます。それなのになぜかグルメの世界においては、皮肉なことに、自由は何かと剥奪されがちです。
 マナーが堅苦しい、みたいな話をしているのではありません。そもそもマナーというものは、その食べ物を最もおいしく食べるためのノウハウが蓄積されたものでもあります。よしんばそれが肌に合わずとも、グルメの世界においては、マナーに縛られず豪放磊落にかっ喰らうという振る舞いも、許されるどころかむしろ推奨されています。
 では何がいったい不自由なのか。グルメの世界には、暗黙の前提が多すぎるのです。たとえばラーメンを例に挙げてみましょう。麺にはコシがないといけないことになっています。スープはあっさりだろうとこってりだろうと、コクがあって複雑な旨味を湛えたものでなければなりません。チャーシューはジューシーでなければなりません。そうでなければ「うまいラーメン」とは認定してもらえないからです。それがルールです。
 ラーメンに限らず、カレーも餃子も焼肉も寿司も、だいたいあらゆる食べ物は、「こういうものがうまいとされているのだ」的な、暗黙の了解の上に成り立っているのがグルメの世界と言えるでしょう。それは本来、おいしいものに効率よく出会うためのヒント集のようなものだったはずです。しかしそれはいつしか、逸脱を許さない経典の如きものになっていきました。

 著者マキタスポーツさんは、紛う事無きグルメです。その美食への飽くなき追求ぶりは、どこか求道的ですらあります。だから本書は、誰もが美食にたどり着くための実用的なヒントが満載です。
 一世を風靡した「10分どん兵衛」に始まり、試行錯誤の末に辿り着いた納豆チャーハンのレシピ、カルビの脂がキツい年齢になり始めてからの焼肉の楽しみ方、丼物の盛り付けに関するコロンブスの卵的新提案……。それらは読者のグルメライフを、明日からでもすぐに向上せしむるものです。しかもそれらは、単にノウハウのみが示されているわけではありません。そこに至る背景と道程が、実に丹念に記されています。
 ところがその道程における著者の態度は、一般的なグルメとは大きく異なります。すっかり経典化しつつある現代のグルメルールから、ひたすら逸脱し続けているのです。著者はそれを、人の話を聞くのが苦手という哀しい能力があるから、と自己分析しています。しかし本書を読み進めていくと、そこにはもうひとつ、重要な要因があることにも気付かされます。それは「恥」の概念です。
 作中、著者はやたらと恥ずかしがっています。乙女のようです。普通であれば、人々は、グルメルールから逸脱してしまうことを恐れ、恥じます。だからこそグルメルールは経典化したのです。しかし著者は逆です。意識的にせよ無意識的にせよ、グルメルールに沿ってしまいそうになると、途端に恥ずかしくなってしまう。
 それどころか、食べることについて考えること、語ること自体が恥ずかしいとまで言い切ります。グルメがすっかり高尚な趣味の如く扱われるようになった現代において、我々がつい喪失してしまいがちなこの繊細さこそが、本書のしなやかな背骨となっています。
 タイトルに「外道」とあるように、本書は終始、既存の経典からの道を外れつつ、それでもおそらく多くの人々の共感を呼ぶでしょう。だからそれはある意味、新しい経典のようにも見えます。しかし同時に著者は、経典となることを決して望みません。その代わり、そこに書かれていることが全て、あくまでパーソナルな「私だけの食べ方」であることが強調されます。だからむしろそれは、硬直化するグルメ経典から、人間中心主義的な主体性を取り戻すルネッサンスなのです。
 いったいどういうことなのか。最後に、作中で著者自身も一部引用している寅さんの名言を置いて終わりたいと思います。
「おまえと俺は別の人間なんだぞ。早え話がだ! 俺が芋食って、おまえの尻からプッと屁が出るか!」
――「男はつらいよ」脚本:山田洋次・森崎東(1969年、松竹)

(いなだ・しゅんすけ 料理人)

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