書評
2025年5月号掲載
「心掘り当てること」こそ言葉の本質
俵 万智『生きる言葉』(新潮新書)
対象書籍名:『生きる言葉』
対象著者:俵 万智
対象書籍ISBN:978-4-10-611083-2
お散歩の途中で工事現場に差し掛かったとき、クレーン車を指さして「これは、なにいろ?」と尋ねた保育園の先生に、1歳になるうちの子は「きいろ」、隣の子は「オレンジ」と返し、途端に喧嘩がはじまったという。「きいろだよ」「オレンジなの」と言い合う様子が、保育園からの連絡帳に微笑ましく記されていた。
「『子育て』を言葉の面から定義するなら、私の場合は『まっさらな状態で生まれてきた人間が、日本語ペラペラになるまで、ずっとそばで見ていられること』だ」と、俵万智さんが「言葉」をテーマにした本書を「子育て」から語りはじめたとき、連絡帳のこの情景に新たな光が当たった。
まず思い知ったのは言葉の限界である。「心の音楽」を言葉に紡ぎだす第一人者なのだから、さぞかしその可能性を高らかに謳いあげるのだろうと手にした本書は、意外なことに「そもそも言葉と世界とは、一対一で対応していないし、絶望的にズレがある」と、その限界を認めるところからスタートする。
確かに、クレーン車は「黄色ともオレンジとも表現できる色」だったそうで、こういう単純な表現であってさえ、現実の多くはその間のグラデーションの中に存在するのだから、ましてより複雑な「気持ち」を「言葉で100パーセント……説明するのは不可能」だろう。そういう意味で、言葉は「ざっくりした目印」に過ぎないという俵さんの到達点は、感情の複雑さを言葉で表現しようと推敲を繰り返したプロフェッショナルだからこそ、「ニュートンの海」を彷彿とさせ、さらりとした文章の中で厳かに光る。
次に子どもの側の限界である。1歳児の語彙は圧倒的に少なく、議論はまったく深まらない。山吹色や柑子色――黄色とオレンジの間にある実に多くの色の名前を、この子たちはまだ知らない。「人類の大先輩たちが、世界を理解しようとがんばったり、気持ちを伝えあおうと奮闘し」て豊かにしてきた言葉を学びながら子らは成長していく。
そして、言葉を磨き鍛えることは、ネットを介したやり取りが日常となり、「背景抜きの言葉をつかいこなす力」が求められる現代にこそ重要なのだという記述に深く頷きながら、そのためには「受け身」よりは「生身」、つまり、スマホの動画よりは絵本の読み聞かせだと説く本書に従って、私はいまスマホをしまいこんで、絵本を読み聞かせている。何度も読んで破れたページを「いたい、いたいね~」となでさするわが子の共感力に、とっくに鈍ったはずの私の感性センサーが呼び覚まされる。
かつてもっと繊細だった幼き日、「おばあちゃんは死んじゃうの?」と繰り返し尋ねて、母に厳しく叱られたことがあったっけ。大好きな祖母が自分よりも先に亡くなるという恐れ、口に出せば実現しないという勝手な思い込み、複雑な内面世界に言葉が追いつかないまま、何とか伝えようと躍起になっていた。
もしかしたら、どれだけ語彙が限定されても、自身が切り取った黄色やオレンジの鮮やかさを隣の子にも見せたいと願う1歳児にも同じだけの切実さがあるのではないか。保育園の先生によれば、言葉で闘える限りは、園児たちは力による解決を図らないのだとか。
ラップのディスりに嫌悪感を抱いてきた俵さんが、実はそれがアメリカのギャングにとって殺し合いの代替だったという成り立ちに触れて、見方を変える箇所が本書にはある。そう、限界はあれど、言葉にはそれだけの力もまたあるのだ。自分の内面を伝えたいと願う切実さが、言葉を武器にも翼にも代えて世界に手を伸ばそうとする人々を後押しするだろう。
いま私は自分の内側に手を突っ込んで言葉を引っ張り出そうと躍起になりながら、この書評を書いている。ときに目を見開き、深く頷き、うるっとした、この新鮮な感情を言葉の形で掬いあげようとしても、指の間からするりと抜けていく。この感覚は、複雑な内面世界に言葉が追いつかないともがいたあの頃と何ら変わらないと気づく。年を取るにしたがって自分の気持ちをステレオタイプで分類しがちになっていた。だが、名状しがたい複数の思いがいまも私の中に入り混じっている。それをありのまま伝えたいと願うとき、心の混沌に潜ってもっとも近似する表現を探す。
この「心掘り当てること」こそが、俵さんによれば言葉の本質なのだ。不完全でもこの試みを繰り返そう。内面世界の複雑な広がりに言葉の目印を打ち込もう。たとえ1つ1つの目印は点でも、その集合体は点描のように心のありかを示す地図になっていくだろうから。
(やまぐち・まゆ 信州大学特任教授・ニューヨーク州弁護士)