書評
2025年5月号掲載
ADHDも個性の一つ
アンデシュ・ハンセン、久山葉子 訳『多動脳─ADHDの真実─』(新潮新書)
対象書籍名:『多動脳─ADHDの真実─』
対象著者:アンデシュ・ハンセン/久山葉子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-611085-6
本書はADHD、注意欠如・多動症を脳科学から解説した一冊だ。ADHDなんて他人事、とも言っていられない。精神科医の著者は「誰でも多かれ少なかれADHDの傾向がある」と言っているし、ADHDに問題しかないなら、なぜ人類の進化の過程でそんな脳の傾向が残ったのか。環境ホルモンという要素も無視し得ないようにも思うが、診断数は世界的にも増えているそうだ。日本では学童期で3~7%、35人学級ならクラスに2人いてもおかしくない。
私が校長を務めていた開成は多様性を大切にしているので、個性的な生徒が多数在籍している。入試の合否は、在学校での欠席日数の条件をクリアーさえしていれば、試験の点だけで決まる。合格者にはADHDやアスペルガー症候群と診断された生徒も当然含まれていて、そうした子供の親から開成は有名だったそうだ。学校側にしてみれば特に意識することのない、多様性の中の普通の存在だった。
私たち教師が気にかけていたのは別のことだった。地元の小学校、中学校でトップクラスの成績を取っていたって、入学すれば下から数えた方が早い子ももちろん出てくる。定期テストで1番だ3番だを取ったらいい気分だろうが、学年で300番だ400番だとなればどうか。
だから特に中学、高校に入学して最初の4月、5月がクリティカルな時期だった。子供たちの価値観を変えてやる必要がある。勉強ができることだけが唯一の価値なんじゃない。そう信じさせてやる必要がある。とはいえ自我が芽生える時期、親の言うことも教師の言うこともろくに聞きはしない。
ところが先輩の言うことは聞く。
開成は5月に運動会がある。中1から高3まで縦割りに8チームが団体競技で得点を競う。普段と違う生徒集団ができて、先輩の指導を受けて、勝ちたいから頑張る。そういう中で先輩たちから教わるいろんな価値観に触れる。ここでは自分の得意を伸ばせば生きていける、そう思えればしめたものだ。
その後で中間試験をやる。いいんだよ順位なんて、と言う先輩もいる。そんな先輩に惹かれて部活を選ぶ子もいる。後に藝大を出て指揮者になった生徒は、ずっと頭の中で音楽が鳴っていたんだろう、音楽部に入って休み時間になると廊下で棒を振っていたけれど、そんな風になってくれたら教師陣は内心(一丁上がり)と思っている。なぜなら居場所を作ってやることが大事だからだ。多様な人間がいる中で、自分なりの得意が活かせると思えれば、後は自分で自分を伸ばせばいい。
ADHDは飽きっぽいという。人の話もよく聞かない。脳のドーパミン受容体の構造が少々特殊で、大量のドーパミンを必要とするからだ。注意があちこちに分散するのは人類がサバンナで暮らしていた頃、外敵から身を守るために必要な能力だったろうが、学校で座って興味のない授業を聞いているのは苦手だと著者は言う。だが興味のあることにはこの上ない集中力を発揮するし、発想も自由。だから歴史上、天才と呼ばれる人たちも「ADHDだったのでは」と推測されたりするわけだが、彼らも自分の得意を伸ばせなければ、天才と呼ばれることもなかったろう。『窓ぎわのトットちゃん』を読んだらいい。当時そんな言葉はなかったが、今だったらADHDの一例と言えるだろう。その黒柳徹子さんは90を過ぎて今も活躍を続けている。
本書でも触れているが、人は脳を含め、DNAで基本的骨格が出来ている。設計のスタートはそこで、ゴールはわからない。脳の神経回路網の発達は性格や環境によって決まっていく。開成の教師たちが見ているのもそこだ。
毎年1月に進級判定会議というのをやる。休みや遅刻が多かったり、成績が揮わなかった生徒が一定数、会議にかけられる。そこで生徒の応援演説をやるのが担任だ。遅刻をさせませんとかレポートを書かせますとか校長に弁舌を揮って、1月末に再審査をお願いできませんかと言う。
この会議に毎年のようにかかる常連がいる。友人や後輩が「卒業させる会」を結成したり、教師が補講してやったりして力を貸し、なんとか卒業する。面白いことに、そういうやつに限って後年、社会で活躍する。
功利主義がすべてではなくなった。人間とはこうなんだ、という時代でもない。人の興味は多様化し、精神の自由度は広がった。ADHDという存在もまたそんな社会の一部なのだ、とする本の存在は貴重だと思う。
(やなぎさわ・ゆきお 工学博士、東京大学名誉教授、元開成中学校・高等学校校長、北鎌倉女子学園学園長)