書評

2025年6月号掲載

円城 塔『去年、本能寺で』刊行記念特集

圧縮された歴史を取り出して

柴田勝家

対象書籍名:『去年、本能寺で』
対象著者:円城塔
対象書籍ISBN:978-4-10-331163-8

 今、この原稿を書いているのは柴田勝家(作家)である。
 どうして(作家)をつけなければいけないかと言えば、当然、柴田勝家(武将)がいるからだ。ウィキペディアの見出しでも柴田勝家(作家)となっている。曖昧さ回避のページに飛べば他の「柴田勝家」もあるが、そこでは各種ゲームに登場する柴田勝家(武将)を並べているだけである。コイツだけがおかしい。しかし、柴田勝家として存在してしまっているから仕方ない。
 もちろん然るべき団体から怒られたら改名やむなしだが、作家の方の柴田勝家は未だに活動を続けている。デビュー直後に福井県庁の方々と会ったが、果たして許されたか、あまり調子に乗るなよ、のメッセージだったのかは判然としない。
 ともかくも柴田勝家(作家)が活動を続け、万が一にも後世に名が残ることになると大変だ。数百年後には二人いる柴田勝家が混同され、受験生を大いに悩ますかもしれない。とはいえ伊達政宗も9代目と17代目が同名であるし、氏家卜全と漫画家の氏家ト全氏や、羽柴秀吉と羽柴誠三秀吉氏の例もある。
 何が言いたいかと言えば、歴史というのは積み重ねれば積み重ねるほどに、同姓同名や似た業績の人物が現れ、後世で混同され、それぞれの逸話が合体することもあるということ。歴史は常に圧縮され続け、過去のものほど参照すべきデータが破損してしまうのだ。
 それは『去年、本能寺で』の中で語られる展開と通じる。
 各短編で語られている内容は、一般的な歴史小説の枠組みにない。まず歴史的な過去として、その当時を生きる登場人物がいる。しかし、それに現代の視座と、未来からの観測が入り交じる。ようは今現在で「史実とされているもの」を、登場人物が「史実とされている」と認識するような場面がある。だから、歴史小説であるが現代小説であり、SF小説でもある。
 または歴史上に現れる異説や、研究によって新たに生まれた学説も入り込む。たとえば戦国大名たる斎藤道三の業績が、実は二代にわたって作られたものだという新しく一般化した説が物語に取り込まれている。逆に明治期に語られた親鸞非実在説や、日本人が知らなかった坂上田村麻呂黒人説など、現代の視点から見ると奇妙な学説すら、それぞれの短編で意味を与えられて現れる。
 あるいは史実として語られていることにも意味が与えられる。源実朝が巨大な唐船を作ったことも、本居宣長が架空都市の地図を作ったことも、足利義教がくじで将軍に選ばれたこともそうだ。もしくは細川幽斎がAIであったことも、石器時代の日本で探偵と助手が殺人事件を調べていたことも、最初の生命が現れた冥王代で本能寺に思いを馳せることも、本邦初のキリスト教徒たるヤジロウが山椒太夫の説話に入り込むことも、語り得ない史実として存在している。
 史実を事実とするのは、まず一次史料にそう書かれているからだ。加えて新たな学説や俗説もからんで、社会一般で受け入れられる「歴史」が現れる。そこに当人の思いや認識は関係ない。関係なくなってしまう、ということを登場人物たちは理解し、抗い、また諦めていく。本作のトリを飾る「去年、本能寺で」では、信長公が後世で様々に語られることを受け入れている。少女になることすら「是非もなし」である。
 この短編では信長公がいかに後世で飾られたかを語っている。「信長」としての役目を果たせ、本能寺の変に立ち会え、という期待すら背負わせる。歴史小説を読む際に、読者が自然と抱く感情を当の信長公は理解している。なんと面白い転倒だろうか。
 過去は圧縮され続け、歴史上の人物は業績を参照する文字列になり、そこに個人の感情が入り込む余地はない。その悲しみを慰撫するように、人々は伝説を作って個人としての像を作る。物語の中で人間らしく暮らしてくださいませ、という具合だ。
 しかし、本作は別の手法で歴史上の人物に寄り添う。歴史の底で眠る個人を観測し、遠く未来で起こることを告げ、どう思いますかと尋ねる。教科書に書かれた文字列に人格を与え、一人の人間として問いかけてくれている、まさに無二の小説だ。
 時に、本稿を書いているとどうにも不思議な気分になる。文中には柴田勝家(武将)からの視点が挟まれている気もする。果たして、彼もまた過去から柴田勝家(作家)を見ているのだろうか。
 ならばワシは、今からでも謝る準備をしておこう。

(しばた・かついえ 作家)

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