書評
2025年6月号掲載
楕円形の歴史小説
青柳碧人『乱歩と千畝─RAMPOとSEMPO─』
対象書籍名:『乱歩と千畝─RAMPOとSEMPO─』
対象著者:青柳碧人
対象書籍ISBN:978-4-10-356271-9
江戸川乱歩の業績はよく知られている。「二銭銅貨」や「D坂の殺人事件」などの短編で日本の推理小説の基礎を築き、少年探偵団シリーズで人気を博して別格の存在感を示した。昭和40年(1965)に没したあとも現在に至るまで読者が多く、その生涯についても伝記や評伝が何冊も書かれている。
あるいはまた、杉原千畝の業績も。第二次大戦中、外交官としてリトアニアのカウナス領事館にいたとき、大勢のユダヤ人を含む難民たちにビザを発給して国境を通過させた。その生涯を記した本はやはり多く、テレビの教養番組などでもしばしば「命のビザ」とか「東洋のシンドラー」とかいう手短な語句とともに取り上げられる。
つまりは、どちらも歴史上の有名人である。しかしその二人を組み合わせて一つの物語にするという発想はこれまでになく、もっぱら青柳碧人の独創にかかる。『乱歩と千畝─RAMPOとSEMPO─』はまったく新しいタイプの歴史小説なのである。
さて、一見どこにも接点がなさそうなこの二人、はじめて会ったのは、早稲田大学の近くの三朝庵という蕎麦屋だった。
たまたま相席になったのだ。ただし年が六つ違う。乱歩はもう早稲田を卒業している。けれども会社づとめが性に合わず、このころは昼は団子坂で古本屋をやり、夜は屋台を引くという不安定な生活をしていて、その屋台で出すものを考えるため、この店評判のカツ丼なるものを食いに来たのである。
いっぽう千畝は、在学中である。貧乏だから、かけそばを食べる。乱歩はふとしたことから千畝が愛知県立第五中学校の出身であることを知り、声をかけた。乱歩もおなじ学校の出身なのだ。
このときの小さな雑談がきっかけで千畝は外務省が官費留学生候補を募集していることを知り、ロシア語を学びはじめる。目指すは外交官だ……その後の小説の展開は、きびきびして読みごこちがいい。二人の人生の道はときに離れ、ときに交差する。交差するたび彼らの(特に千畝の)心境がひとつ前に進む。
二人のまわりには、まるで二つの太陽に引きつけられる惑星群のようにして実在の人物があらわれる。横溝正史、松岡洋右、花菱アチャコ、美空ひばり……しかしながら最も重要なのは、無名というか、いちばん身近な人々にほかならなかった。
すなわち乱歩の妻隆子と、千畝の妻クラウディア。特に隆子はいきいきしている。もともと伊勢湾に浮かぶ坂手島で小学校の先生をしていたのだが、たまたま島に来た乱歩のことを好きになって、彼を追って東京へ出たが見つからない。そこで千畝や画家の岡本一平まで巻き込んで「いかがわしい」「夾雑を極める」浅草の街をさがしまわるくだりは作中屈指の楽しさだ。その夾雑ぶりときたら、たとえば白塗りの外国人青年が「ココニソロエタルハ、ヒトツメ、ロクロクビ、バケチョウチン!」などと怪しい日本語で客の呼び込みに精を出すほどなのである。
いっぽう千畝は、クラウディアとは事情があって別れるが、次の妻の幸子にはこんなふうに難詰される。
「あなた方には才能がある。そして、才能を生かせるステージに立っている。それなのに、ちょっと自分の納得いかない仕事だからっていじけてみせたりして。贅沢なのよ、江戸川乱歩も、杉原千畝も!」
「落ち着いてくれ、幸子」
「才能はあなたたち固有の財産よ。(中略)でも、ステージに立っているのは、多くの人が応援して、支えてきてくれたからでしょう?」
そう、これは乱歩と千畝だけではない。その二つの焦点を楕円状に取り囲むすべての人の物語なのだ。読後の印象ののびやかさ、ふところの広さは格別である。青柳碧人はこの一作によって、いきなり歴史小説の大物となった。
(かどい・よしのぶ 作家)