書評
2025年7月号掲載
臨床心理学者河合俊雄さんに「夢の見方」を教えてもらう
河合俊雄『謎とき村上春樹─「夢分析」から見える物語の世界─』(新潮選書)
対象書籍名:『謎とき村上春樹─「夢分析」から見える物語の世界─』
対象著者:河合俊雄
対象書籍ISBN:978-4-10-603930-0
夢は決してよく見る方ではないが、いまでもいくつか忘れられない夢がある。たとえば、太陽が爆発する夢。空に浮かぶ太陽が、ゆっくりと、見たことがない大きさに膨らんでいく。不気味な色の空と、異様な大きさの太陽。太陽が膨らむ速度は凄まじく、「太陽が爆発したのだ」とわかる。驚きと戦慄、そして圧倒的な自然の力を前にしてなすすべもない諦めの感情……。地面に伏せる。すべての終わりを覚悟する。と同時に、これまで生かされてきたことへの感謝の念に包まれる。
目覚めて振り返れば、荒唐無稽な夢である。だが夢のなかにいるときには、現実そのものなのである。
夢を見るというのは不思議なことである。ふと気づいたときには、別の世界にいる。だが夢から覚める刹那には、それと気づくことができる。このときにはまだ、夢を現実としていたときの感触が残っている。そして、「あの夢は何だったのだろう」と、夢との対話が始まっていく。
本書は、村上春樹の作品が、「非常にわれわれが見る夢に似ている」という直観から始まる。夢では覚醒時と違う世界が展開されるが、まったくのナンセンスでもない。心理療法では夢が、覚醒時には意識されていないこころを表していると考える。村上春樹の作品もまた、夢のように謎に満ちている。だが物語に身を委ねて不思議な世界に引き込まれていくうちに、「未知の可能性や豊かさ」が示されていく。
ユング派の心理療法を営む著者は、臨床の現場で「夢が何を意味するのかを明らかにしようとする」ときと同じアプローチで、村上春樹の作品が示す可能性を、物語の内側に入り、その内部から捉えていこうとする。
誰もが日々、夢を見ているにもかかわらず、夢の見方を教わる機会はあまりない。日常は、いくつもの物語にいろどられているにもかかわらず、物語の読み方をあらためて学ぶ機会は少ない。
その意味で本書は、貴重な一冊である。夢をどのように見て、物語をどのように読めばいいのか。この本を読みながら私は、丁寧に導いてもらっているような感覚になる。
「物語を未知のものとして受けとめ、その中に入っていき、物語の動きを一緒に行うこと」によってはじめて、物語の意味とインパクトが生まれてくる。著者のこうした言葉に触れているだけで、物語に向き合う姿勢や心身のあり方が整えられていくのを感じる。
ユング派の心理療法を基盤として本書で展開される作品の具体的な読み解きは、目から鱗の連続である。ユングの「結婚の四位一体性」の概念を適用して『1Q84』の青豆と天吾の恋愛を読み解くプロセスなどは圧巻だ。青豆と天吾がバラバラに孤独に生きていたことは、人と人のあいだのつながりの問題ではなく、超越性や死者との関係を含む「向こう側」との関係の問題であったことが明らかにされる。
こうした読み解きの前提となるのは、近代意識の成り立ちについての著者の透徹した理解と、これと区別される「ポストモダンの意識」の特徴づけだ。村上春樹の作品は「現代の最前線の意識のあり方を捉えている」と著者は指摘する。それは、全体を支配する大きな物語を失ない、人間関係のつながらなさや、個人のこころの中における解離など、いくつもの困難を抱えた意識だ。
このような意識を抱えた現代の私たちは、どのように生きていけばいいのだろうか。近代意識の成立をなかったことにして、前近代的な世界に回帰しようとするだけでは解決にならない。すでに私たちは、別の現実のなかに入ってしまっている。かつてあった世界にそのまま戻ることはできない。
『1Q84』のなかで天吾が、執筆中の小説と向き合いながら、「過去をどれほど熱心に綿密に書き換えても、現在自分が置かれている状況の大筋が変化することはないだろう」と内省する場面がある。過去を人為的に改変しようとしても、時間は「訂正に、更なる訂正を上書きして、流れを元どおりに直していくにちがいない」。だから私たちにできることがあるとするなら、過去を改変することではなく、「過去を誠実に見つめ、過去を書き換えるように未来を書き込んでいく」ことである。天吾は、物語の中で、このような思考に至る。
一度見た夢、書かれてしまった物語は、その内容を後から書き換えることはできない。だが物語を受けとめ、その中に入り、「物語の動きを一緒に行うこと」ができれば、その先に踏み出される次なる一歩を通して、過去に新しい意味を吹き込むことができる。
本書は、村上春樹の作品の「謎とき」を通して、このことを鮮やかに実演して見せてくれている。
(もりた・まさお 独立研究者)