書評

2025年7月号掲載

川本三郎『荷風の昭和 前篇─関東大震災から日米開戦まで─』『荷風の昭和 後篇─偏奇館焼亡から最期の日まで─』刊行記念

荷風の愛した三つのもの

川本三郎

対象書籍名:『荷風の昭和 前篇─関東大震災から日米開戦まで─』/『荷風の昭和 後篇─偏奇館焼亡から最期の日まで─』
対象著者:川本三郎
対象書籍ISBN:978-4-10-603927-0/978-4-10-603928-7

 私が荷風のことを書き始めたのは、「中央公論」の元編集長で「東京人」創刊編集長だった粕谷一希さん――多くの書き手を育てて〈名伯楽〉と呼ばれた方ですが、その粕谷さんから、「近代の重要な大作家を一人選んで、胸を借りるつもりで評伝を書いて、ライフワークにしなさい」と勧められたのがきっかけでした。私は四十六、七歳でした。粕谷さんの誘いに、私は迷うことなく荷風を選び、『荷風と東京』を書き始めたのですが、これは年齢のせいもあったでしょう。やはり若い頃は、荷風の良さがなかなかわからないんですね。年をとるにしたがって、荷風に惹かれるようになりました。 
 私が『荷風と東京』を「東京人」に連載を始めたのは1992年1月号からです。その頃はバブル景気のせいで、東京の古い建物や風景が次々になくなり、街が壊されていく時代でした。昭和十九年に生まれ、昭和三十年代に育った者としては、「いやな時代になったなあ」と感じていましたが、そんな不快感を表に出すのではなくて、むしろそんな時代の最中でも好きなことを書こうと思って、辿り着いたのが荷風だったのです。ご存じのように荷風は東京に生まれ、下町を愛し、隅田川を愛した作家です。ちょうどその頃、私も下町や隅田川に惹かれ始めていましたので、行く着くところは荷風、ということになりました。 
 それまでの荷風は、ほとんどが花柳小説作家、ひどい時は好色作家、エロ作家として論じられていました。尊敬はされていたにせよ、好かれる作家ではなかった。特に女性たちには人気がなく谷崎潤一郎に比べれば、十分の一も女性読者はいなかったと思います。
 もっとも、荷風の読者の方が谷崎の読者より、はるかに熱度が高いんですね。ひとたび荷風の愛読者になると、とことん好きになる傾向があります。例えば『ぼく東綺譚』の舞台になった玉の井を歩く、浅草へ行く、あるいは終焉の地になった市川まで足をのばすなど、ゆかりの土地を訪ねる読者は今でも多いでしょう。
 十年くらい前のデータですから、今は変わっているかもしれませんが、近代の作家で最初の本から最後の本まで初版本をすべて集めるとしたら、いちばん値段が高くつくのが漱石でも鷗外でも太宰でもなく、荷風なのだそうです。熱い愛読者がつく作家なのですね。
 私が荷風に惹かれた頃は、建築の世界で「ウォーターフロント」という言葉が盛んに使われはじめ、〈水辺〉に関心が集まった時代でした。近代の東京は、明治の薩長政府の方針によって、水辺ではなく、陸の方を大事にしてきました。いみじくも汽車のことを「陸蒸気」と呼んだように、陸が薩長政府にとって重要であり、一方、水辺の土地であった下町は見捨てられていきます。荷風は時代に逆行するように「水の東京」を大事にしました。「水の東京」というのは幸田露伴が言い出したことですが、露伴は幕臣の側の人間です。荷風の永井家もそもそもは名古屋の武家ですから当然、旧幕派でした。つまり戊辰戦争で勝った側は陸を重視し、負けた旧幕派は「水の東京」を大切にしていったのです。 
 私は『荷風と東京』の前に、『大正幻影』(1990年)という評論集を書きました。これは、大正時代に隅田川に象徴される「水の東京」に惹かれた作家が非常に多いことに気づいて、例えば佐藤春夫の「美しき町」、谷崎の「刺青」、あるいは隅田川沿いの両国に生まれ育った芥川龍之介の「大川の水」、そして永井荷風の「すみだ川」などを論じたものです。 
 この本を書いた後に、粕谷さんから「近代の重要な大作家を一人選んで書け」と言われ、すぐに荷風が頭に浮かんだのです。いま八十歳になって、荷風の没年をこえたわけですが、それでもなお、荷風にこだわって、考えたり、書いたりできる。そんな対象になる作家と出会えたというのは、非常に幸福なことだと思っています。

荷風文学の特色

 荷風の文学の特色を、丸谷才一さんが三つ、挙げています。ひとつはフランス文学への憧れ。ふたつめは『源氏物語』などにも顕著な、日本の伝統文化である色好み。三つめは、色好みと正反対のような儒教精神。丸谷さんは荷風をあくまで花柳小説作家として見ていましたから、私と荷風観が異なるところもありましたが、この三つはうべなえる特色です。 
 荷風みたいな軟派な作家が儒教の影響を受けているのか、と思われるかもしれませんが、荷風は基本的には士農工商でいえば士、武士の流れにあるんですね。ああ見えて、実はきびしい武家の躾や価値観を身につけている作家でした。文章を見ても、ストイックで硬質な文章です。
 丸谷さんの挙げた三つに加えて、私も三つの特色を加えたいと思います。まず荷風は「都市の作家」でした。
『荷風の昭和』のまえがきでも触れたことですが、ノーベル文学賞を受賞したフランスの作家パトリック・モディアノが受賞講演で、「偉大な作家たちの何人かはひとつの都市と結びついています」と言って、バルザックとパリ、ディケンズとロンドン、ドストエフスキーとサンクトペテルブルグ、そして荷風と東京、を例に挙げています。これは正しい意見で、ディケンズとロンドンの関係がそうであったように、荷風は東京という街を愛し、東京と深く結びつき、東京を創作の舞台として書いていった「都市の作家」である。そんなふうに私は考えます。
 次の特色は、「老いの文学」ということです。漱石の『三四郎』や鷗外の『青年』、あるいは太宰治や、現在の村上春樹さんもそうですが、青年を描くのが日本文学の主流です。ところが荷風は老人を描くんですね。初期の「すみだ川」では主人公は青年ですが、彼を支え、導く老人がいる。老人がいかに重要かと語っているような小説なんです。これは後年の作品まで共通した特色です。だから年をとるにしたがって、男は荷風好きになるのかもしれません(会場笑)。
 一方で、さきほども言いましたように、荷風は女性の読者が少ない作家でした。『ぼく東綺譚』でも私娼を描いているように、カネで女を買うような小説を書く、女性を蔑視している奴だ、あるいは女好きのだらしない好色作家だ、というわけです。でも、荷風をよく読むと決してそうではない。これは『荷風の昭和』で強調したことですが、荷風は女性というより、女性文化を愛した。女性の持つ優しさ、たおやかさをこよなく愛した。これが私の考える、荷風文学の三つめの特色です。 
 荷風が女性文化を大切にしたのは、戦前・戦中の軍国主義の時代の軍部の横暴ぶりに嫌気がさしたことが大きかったでしょう。武張った文化や大日本帝国の猛々しい帝国主義に対抗するものとして、たおやかな女性文化を大切にしたことは、『ぼく東綺譚』でも、「つゆのあとさき」でも、きちんと読めば、いくつもの箇所で読み取ることができます。 

「周縁の風景」を発見する

 いま三つ挙げた特色について、もう少し具体的にお話しします。 
 都市の作家という点で言えば、荷風は散歩が好きで、いま大量に氾濫している「街歩き本」の嚆矢と言っていい、『日和下駄』を著しています。『日和下駄』に限らず、荷風はさまざまな作品で、〈東京の街歩き〉を思索の対象にした最初の作家です。
 荷風は歩くことで都市の風景を発見していきます。とりわけ惹かれたのは東京の周縁の風景、例えばそれまで誰も注目しなかった荒川放水路などです。荒川放水路は大正時代に隅田川のバイパスとして作られた人工の川です。
 荒川放水路は北区の岩淵水門から始まりますが、荷風はそんな東京のはずれと言っていい土地まで足を運んで、茫漠たる風景に美しさ、詩情を感じています。まさに「風景の発見」をしたわけです。
 そして、この放水路の近くにある玉の井の私娼窟――ここは吉原に較べたら三流、四流の、ドブの匂いのするような薄汚い遊び場です。荷風はそんな悪場所にまで何度も足をのばして、街の地図まで描けるようになってから文章に取りかかり、詩情豊かな『ぼく東綺譚』を完成させます。
 荷風が愛したのは、東京の風景といっても、東京の中心部ではなく、中心から外れた風景、周縁の風景を発見していきました。これはフランス文学の影響かもしれません。荷風は若年の頃からボードレールに惹かれていましたが、ボードレールは娼婦の佇むパリの裏町、パリの周縁のうらぶれた風景をうたった詩人です。荷風もまた殺風景な、さびれた場所に注目していきます。 
 小津安二郎監督の「東京物語」をご覧になった方は多いと思いますが、あの映画の印象的なシーンのひとつに、尾道から出てきた笠智衆と東山千栄子の老夫婦が、山村聰演じる長男の家に泊るところがあります。当時はホテルなどほとんどありませんから、上京してきた両親は長男の家に泊るんですね。この家は、東武スカイツリーライン――イヤな名前ですね(笑)――堀切駅の近くにある設定です。東山千栄子が、土手で遊んでいる孫を見ながら、「お前が大きくなる頃には、おばあちゃんはもういないだろうねえ」みたいに呟く、しみじみしたいい場面があります。
 この場面は、まさに荒川放水路の土手で撮影されました。なぜ小津安二郎はそんな場所を選んで撮影したのだろう、というのは長年の疑問でしたが、その疑問が解けたのは、小津研究の第一人者である田中眞澄さんが編集した『全日記 小津安二郎』を読んだ時でした。小津の日記を読むと、当時、中央公論社から出たばかりの『荷風全集』で『断腸亭日乗』を毎日のように読んでいます。それは「東京物語」の前年、この映画のロケハンをやっていた頃のことです。小津は荷風の影響を受けて、荒川放水路で撮影したのではないか。
 戦後、荷風が浅草で遊んだ踊子の中に、桜むつ子という方がいました。のちに女優になり、戦後の小津映画のほとんどに出演しています。だいたい飲み屋の女将の役で、セリフも少ないのですが、必ず桜むつ子が顔を出す。どうして小津に重用されたのか、私がインタビューした折に訊ねてみましたら、「小津先生は荷風先生を大変尊敬していらしたんです。撮影の休憩時間になると私を呼んで、荷風先生はどういう人だったか聞いてきたものですよ」。
 荷風は絵心もある人ですから、昭和七年頃の『断腸亭日乗』には、麻布の偏奇館から東京の北の果ての荒川放水路まで何度も通った記述と一緒に、自分で描いた絵も載っているんです。その絵には、堀切駅の近くから葛飾の方に向かう四ツ木橋を描いている。まさにそこは「東京物語」で東山千栄子がしゃがんで孫が遊ぶのを眺めている場所なんです。小津は明らかに荷風から影響を受けています。

ノスタルジーの作家

 荷風における「老いの文学」についてお話ししますと、荷風の作品を読んでいると、必ずと言っていいほど、どこかに老人が出てきます。それも非常に好ましく出てくるのです。
『ぼく東綺譚』を読まれた方は多いと思いますが、冒頭の場面をおぼえてらっしゃいますか? 荷風先生を思わせる老紳士が浅草、そして足をのばして吉原の裏通りを歩いていく。吉原の裏町に一軒知っている店があって、老店主がやっている古本屋なんです。この名前も知らないが顔馴染みの小柄な老人は実に好ましく描かれています。その店でもう一人、禿頭の老人と出会い、あるものを買って、派出所の巡査に怪しまれることになります。
『ぼく東綺譚』は、荷風先生らしき老紳士と、けなげで気立てのいい私娼・お雪との交流を描いているものですが、濡れ場は一切書かれていません。
 古本屋の場面からわかるように、老境に入った人間、性欲を脱した枯れた人間の視線で、若くて美しいお雪さんを見ている。そこには、好色というか、いやらしい視線がありません。だから何度読んでも感動できるんですね。
「つゆのあとさき」では、主人公は銀座のカフェの女給で、男をとっかえひっかえします。お雪さんとは全然違うタイプの女性ですが、この小説にも、カフェに出入りする流行作家――菊池寛がモデルだと言われていますが――の老父という形で老人が出てきます。
 この老人は学者なのですが、専門はいかにも時代遅れの漢学なんですね。時代から外れてしまった老人が東京の郊外、豪徳寺あたりに侘び住まいをして、女出入りの激しい息子の嫁を慰めます。あるいは、あまり語られない短篇に「老人」という作品があります。舞台は立石で、そんなさびれた、東京の周縁の土地に――立石の方がいたらごめんなさい――隠居した老人が主人公です。既に息子は戦死しており、今度は奥さんが亡くなって、その法事の一日を書いている、とてもいい短篇小説です。ここでも荷風が老人に優しい視線を注いでいるのがわかります。
 荷風自身が老人になっていく『断腸亭日乗』の後半は、老人文学と呼んでもいいものです。そして私の『荷風の昭和』の特色は、戦中・戦後の、つまり老いた荷風に多くのページを割いていることだと思います。あまり語られてこなかった「老いの荷風」がひとつのテーマになりました。
 老人の特色は思い出が増えることですよね。荷風は、そもそも老人が好きだったうえに、自分も歳をとっていく。いよいよノスタルジーの作家、過去追慕の作家になっていきます。そのため若手作家から批判されたりもするのですが、老いた人間の持つノスタルジーを最後まで大事にしつづけました。
 私もこの姿勢に大賛成なのです。よく「単なるノスタルジーでなく」というステレオタイプな表現をする人がいますが、私はあの凡庸なレトリックを目にするたびに、「単なるノスタルジーで何がいけないんだ!」と腹を立てています(会場笑)。

かくも女性に愛された!

 女性文化賛美ということにも触れておきましょう。
 荷風が描きつづけてきたのは、芸者、女給、私娼、ストリッパーたちです。一見「色事の好きなじいさん」としか思えませんが、よくよく作品を読んでいくと、一貫して女性を賛美していることがわかります。そしてその対象となる女性は、荒川放水路が周縁の風景だったように、社会の中で周縁の存在だったと言っていい。例えばお雪さんのような私娼は、堅気の人間たちからは低く見られていたでしょう。
 荷風の生前から警察に睨まれていた『四畳半襖の下張』も、枕芸者が出てきますが、あれも丁寧に読めば女性賛美もいいところで、女性を喜ばせたいと必死になる男の話です。あの小説を掲載した「面白半分」は起訴されて、編集長だった野坂昭如さんが被告人、丸谷才一さんが特別弁護人をつとめた裁判で、証人になった有吉佐和子さんは「こんなに男の人は女性のために頑張るのかと、あわれになってくる」(会場笑)という名言を吐いています。
 よく言われる荷風のストリップ小屋通いにしても、あの頃の七十代ですから、荷風には性的な欲望がなくなっていたのでしょう。浅草のストリッパーたちのことも、孫娘に対するお祖父さんのように接しています。楽屋に通いながらも、悪い事というか、いやらしいことは何もしなかった、とストリッパーの人たちが証言しています。もっとも、ケチだから、たまにオゴってくれるのも蕎麦屋くらいだった、とも言っていますが(会場笑)。
 荷風は文化勲章を貰っても、世捨て人ですから、今どきの誰彼のようにホテルでお祝いのパーティなんかしません。でも、ひとつだけ喜んで受けた祝宴がありました。浅草のストリップ小屋の社長が音頭をとって、踊子たちともども荷風を「大坂屋」というレストランに招待して叙勲のお祝いをしたんです。こればかりは荷風も喜んで日記に記していますね。
 荷風は別れた女性たちにもまったく恨まれていませんでした。芸者をしていた関根歌という女性とは四年ほど一緒に暮したものの、やはり家庭生活に馴染めない荷風は別れてしまいます。けれども、昭和三十四年に荷風が亡くなった時、歌さんは「婦人公論」に追悼文を寄せて、「荷風先生と暮した時が一番幸せだった」と書いています。あるいは二番目の妻であった藤蔭静樹、元は八重次という芸者で、結婚後一年ともたずに別れましたが、彼女にも「交情蜜の如し」という荷風への追悼文があって、「別れる時、他の相手とは結婚しないと誓い合った、それを守った」と書いている。ちなみに彼女は日本舞踊の名手で、藤蔭流という流派を作り、文化功労者にまでなっています。
 そんな彼女たちとでさえ家庭を持つことを嫌った荷風は、今で謂う「独居老人」の生活を貫き、昭和三十四年にひとりで死んでいきます。
 最後にそんな狷介孤高の荷風の最晩年を支えた、三人の市井の人たちを紹介しましょう。それぞれ一枚ずつ写真が残っています(会場で写真を紹介)。
 まず、阿部雪子さん。堅気の女性で、フランス語が出来たそうですが、いろんな人が調べたけれど、どんな人かの詳細はわかっていません。『断腸亭日乗』によれば、戦前は文部省の下で国宝を管理する部署の職員だったそうです。戦中・戦後の食糧難の時代は宮城県に疎開して、東京よりは余裕があったのでしょう、荷風に食べ物を送っています。写真を見る限り、「東京物語」の原節子みたいな清楚な美人ですね。荷風の友人の相磯凌霜が書き残していますが、お通夜とお葬式と両方にひっそりと現れたけれど、焼香をすませると、誰とも話をせず、黙って帰っていったそうです。
 もう一人は、最晩年の『断腸亭日乗』に何度も「小林来る」と記されている小林修青年。彼もどういう人かわからなかったのですが、荷風終焉の地である市川市の文化会館で荷風展が開かれた時、私が市の職員さんにお願いして、「どなたか小林修さんをご存じではありませんか」と会場に張り紙をしてもらったのです。すると、ある女性から連絡があって、小林青年の詳細を教わりました。小林青年について詳しくは『荷風の昭和』で触れましたので、お読みください。晩年の荷風の生活を親身に支えた青年です。
 もう一人は福田とよさん。荷風の家の近くに住んでいた、通いのお手伝いさんです。荷風の遺体を発見したのも彼女です。当時の「毎日グラフ」という雑誌に、荷風のお通夜の写真が載っていますが、写真の左側、客間に弔問客たちが集まって喋っている。右側は廊下で、その片隅にとよさんが坐り込んで、両手で顔を覆って泣いている。号泣というか、泣きじゃくっているように見えて、胸打たれます。やはり荷風先生というのは女性に愛された人だなあと思いますね。
 私ももう歳ですから、こういう女性たちに囲まれながら逝きたいなあと願っております(会場笑)。

5月23日、東京堂書店神田神保町店での講演を摘録した。編集部

(かわもと・さぶろう)

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