書評

2025年8月号掲載

桐野夏生『ダークネス』刊行記念

ミロのダークナイト

佐々木敦

対象書籍名:『ダークネス』
対象著者:桐野夏生
対象書籍ISBN:978-4-10-466705-5

 1993年、江戸川乱歩賞を受賞した桐野夏生のデビュー作『顔に降りかかる雨』とともに「村野ミロ」は誕生した。以後、『天使に見捨てられた夜』(1994年)、『水の眠り灰の夢』(1995年/ミロの義父・村野善三の若き日を描いたスピンアウト的長編)、『ローズガーデン』(2000年/短編集)とミロは活躍を続け、その間に作者の桐野も『OUT』(1997年)や『柔らかな頰』(1999年/直木賞)など代表作を積み上げながら作品世界を押し広げていった。だが、2002年に発表された『ダーク』でミロの運命は激動する。クールな女探偵村野ミロは人格さえ一変したかのごとき情念に塗れたダークヒロインとなり、読者を震撼させた。
『ダークネス』は『ダーク』から実に二十三年を経たまさかの続編であり、村野ミロシリーズの最新作である。
 まさかの、と述べたのは、『ダーク』があまりにも壮絶な、そしてこれ以上ないと思えるほどに見事な「シリーズ完結編」然としていたからだ。あれから長い時間が過ぎた。だがミロと同じく、自分の意志ではどうにもならない獰猛な運命に導かれるように、桐野は筆を執った。
 現実と同様、『ダークネス』では『ダーク』から二十年が経っている。前作でミロが産んだハルオは二十歳になり、母親と同じ那覇で暮らしながら医師を目指して地元の大学に通っている。ミロはハルオの実の父親の兄で、強大な富と力を持つヤクザである山岸と、ミロが自分の愛する男、村野善三を殺したと信じて恨みを募らせている盲目の女性、久恵に見つからぬように最大限の注意を払いながら、ハルオと二人、那覇でひっそりと生きている。そんな折、やはり前作でミロのために二人を殺害して有罪となったジンホの釈放の日が近づき、ミロはジンホのいる刑務所がある大阪に通いつつ、来たるべきジンホとの生活を心待ちにしている。だが、ハルオがアルバイトをしていたゴルフ場での或る出来事がきっかけで、母と息子の運命は再び狂い始める。
 このように『ダークネス』は『ダーク』の物語を引き継いでいるのだが、そこには二十年という時間が挟まっており、赤子だったハルオが青年になったように、あのミロも今や還暦を迎えている。さすがに残りの人生を心穏やかに過ごしたい。息子の将来を楽しみに見守りながら、愛する男と日本か韓国で睦まじく過ごしたい。だがそうはいかない。私はこの文章ですでに何度も「運命」の二文字を書いた。そう、桐野夏生の小説はすべてが運命譚である。運命とは「自分の意志ではどうにもならない」、けっして逃れられないという意味だ。だからミロは最後の闘いに挑まなければならない。これが最後だ、今度こそ最後なのだと自分に言い聞かせて、運命に追いつかれる前に走り出さなくてはならない。
 本作にはもうひとりの主人公がいる。それはもちろんハルオだ。彼はミロの運命が齎した子である。ハルオは持って生まれた自分の運命に責任はない。だが彼は、否応なしに運命に絡め取られていく。小説はミロの一人称で書かれた章と、ハルオを視点人物とする章が交錯しながら進んでゆく。ハルオの大学の同級生で那覇の大病院の娘である由惟をはじめ、新たな登場人物もすこぶる魅力的だ。
 運命に落とし前をつけること。本作でミロがすることになる(それは「せざるを得なくなる」ということなのだが、もはや能動と受動の違いに意味はない)のは、そしてミロシリーズの「まさか」の続編である本作を書いた桐野夏生の動機もまた、要するに「落とし前」である。語りは、筆致は、ますますスピーディーで、苛烈な熱を帯びていく。ほんとうに凄い小説だ。ほんとうに凄いヒロインであり、ほんとうに凄い作家だ。ここには『ダーク』と『ダークネス』の間に書かれた桐野作品の数々が雪崩を打って流れ込んでいる。その意味で、これは単なる続編とは違う。村野ミロは年を取ったのではなく、自らの物語=運命を何度も生き直してきたのだ。
 そして運命の夜がやってくる。ダークナイト。急激にギアチェンジして一気に加速するかのような、鮮やかで俊敏な、驚くべきラストシーン。私は呆気にとられ、深く激しく戦慄した。だが、それでも、再び朝はやってくる。本作が教える真実、それは、ミロの運命に終わりはない、ということだ。

(ささき・あつし 批評家)

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