書評
2025年8月号掲載
[戦後八十年と「火垂るの墓」]
国民的説話
対象書籍名:『アメリカひじき・火垂るの墓』
対象著者:野坂昭如
対象書籍ISBN:978-4-10-111203-9

二十年たつた。
日本人はみな野坂昭如氏の名篇『火垂るの墓』を何とかして忘れようと努め、しかしつひに忘れることができなかつた。もちろんわたしもまた。
燒跡に生きる可憐な兄妹の物語は、版を重ね、絵本になり、アニメイションになる。忘れたいといふみんなの欲求にもかかはらず、それは国民的説話となつた。
忘れたいと願つたのは、幼女と少年の運命があまりにも哀れだからである。飢ゑて死ぬいとけない二人が心にちらつくのでは、安んじて飽食することがむづかしかつた。
しかしこの短篇小説は生き残つた。人間と歴史の関係の大筋のところを、この上なく鮮明に、むごたらしく示してゐるからだらう。
いや、生き残つただけではなく、いはゆる文学史の枠組からはづれた巨大な存在にならうとしてゐる。やがては、作者が誰だつたのか、民族の記憶が薄れ、ただ説話だけが残るにちがひない。ちようど安寿と厨子王の話のやうに。
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この文章は、「火垂るの墓」が書かれた二十数年後、「鳩よ!」1992年3月号(特集「ぼくは飢え死したい 最後の無頼派 野坂昭如」)のために執筆され、直筆原稿の写真版が掲載された。この原稿は額装されて、いまも野坂家の応接間に飾られている。「波」編集部
(まるや・さいいち)