書評

2025年9月号掲載

櫻田智也『失われた貌』刊行記念特集

体温のある警察官たち

青崎有吾

対象書籍名:『失われた貌』
対象著者:櫻田智也
対象書籍ISBN:978-4-10-356411-9

 羽化は済んだものとばかり思っていたが、実はまだ、蛹にすらなっていなかったのかもしれない。
 一作目『サーチライトと誘蛾灯』が刊行されたとき、櫻田智也という作家は、泡坂妻夫リスペクトとトリッキーな構成を売りとする、ユーモアミステリの担い手に見えた。二作目『蟬かえる』では爽やかな筆致を維持しつつ、社会性の反映と謎解きのロジックにも注力。小説的な完成度がぐっと増し、高い評価を獲得した。三作目『六色の蛹』でもこの路線に磨きがかかり、櫻田智也は早くも作家として完成されたのだ、と思っていた。……のだが。
 最新作『失われた貌』は、これまでとは毛色の異なる長編県警小説であるという。一読して、さらに驚いた。カッチリしているのに中心は温かい、あまりない読み味の警察小説なのだ。つくづく追いかける価値のある作家である。そういえばデビュー前は、ウェブメディア「デイリーポータルZ」のライターであったとか。まだまだ隠していそうですね、抽斗を。
『失われた貌』のストーリーもまた、意外性の連続で読者を翻弄する。
 J県の山中で発見された男性の身元不明死体は、顔を潰され、歯を抜かれ、両手首まで切り落とされていた。臨場したのは所轄署の新任係長・日野。警察の捜査の結果、同時期に近場で起きていた事件と死体がつながり、身元が特定される。しかし、犯人は誰なのか。身元をここまで念入りに隠そうとしたのはなぜなのか。事件の裏では誰と誰がつながり、何が起こっていたのか……。複数の事件と関係者たちの過去をめぐり、日野は思わぬ混沌へ踏み入る。
 トンネルを抜けるたび新たな景色が飛び込むように、暗中模索の中で移り変わる場面ごとの空気が印象的だ。ゴミ屋敷と化していた第一発見者の実家で、父と娘との間に流れる生々しい緊張感が描かれたかと思えば、署を訪問した小学生との無邪気なやりとりもある。バーのマスターに探りを入れるワンシーンなどは掛け値なしにかっこよく、ハードボイルド作品としての風味も備えている。
 けれど、『失われた貌』最大の魅力は、作中の警察官たちがまとう「人間味」の出し方にある。
 警察小説の登場人物には常に二面性が求められる。捜査班の一員として役目をこなし犯人逮捕に貢献する、歯車的な側面と、そんな組織内でも「個」を発揮し読者の共感を喚起する、人間的な側面。器用貧乏な作家の場合、家庭内不和やハラスメントといった過剰な要素を盛り込むことで「人間味」を担保しようとする。だからフィクションに登場する刑事たちは、妻と別居中だったり、そりの合わない上司がいたりする。この手法は国内外問わず警察モノの様式美となり、一種のマンネリ感にすらつながっている。
 櫻田智也のとった手法は異なる。
『失われた貌』に登場する警察官たちは、管轄の軋轢も多少描かれはするものの、互いを尊重し、同じ方向を向き、市民の安全を第一として動くことのできる実直な人々だ。そして作者は彼らの行動に、さりげなく、ささやかな「隙」を挿し込む。星占いを素直に信じる部下。訪問先の店名を勘違いし、頓珍漢なことを言う隣の署の主任。いつも胃薬をもらい損ねる日野。彼の家庭内で交わされるホットドッグにまつわる議論――。勤務描写・生活描写の中に、これらの「隙」がシームレスに挿入される。この一見余分な、かわいらしい「隙」の連続が、警察官たちにリアルな質感と体温を与えている。いい人たちだな、こういう人たちに捜査してもらいたいな、と心から思える。
 他愛ないようでいて難しい、「人間味」をにじませるためのバランス感覚。ユーモアミステリを下地とする櫻田智也ならではの武器だ。そして油断ならないことに、事件の核もこの「人間味」の中に隠されている。細いヒントを手繰りながら捜査を進める日野の先に待つのは、やさしさと、やるせなさがせめぎ合うような真相だ。自分だったらどうしただろうか。読み終えたあと、ふと考えてしまった。
 ところで本作、宣伝にもかなり力が入っている模様。SNSに流れてくるプロモーションには「伏線回収」「どんでん返し」の惹句が躍る。
 もちろん版元としては売れなければ意味がないし、大きく扱ってもらえるのは作家冥利につきること、ではあるのだが。プロモーションで喧伝されるインパクトと実際の読み味には、やや温度差があるように感じた(私の読み方がズレているだけかもしれませんが)。せっかく読者にリーチしても、この温度差が興を削ぐことになってしまってはもったいない。というわけで、この文章を読まれている方には一言添えておこうと思う。
『失われた貌』は、やさしさとやるせなさの警察小説だと思います。これ、念頭に置いておいてください。

(あおさき・ゆうご 作家)

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