書評

2025年9月号掲載

宇宙をどう触わるか

大竹伸朗『絵の音』

湯浅学

対象書籍名:『絵の音』
対象著者:大竹伸朗
対象書籍ISBN:978-4-10-431005-0

 絵を描きたくなるのは何故か。日ごろそんな疑問をお持ちの方は、本書をぜひお読みください。画家、大竹伸朗はその謎について、繰り返し、さまざまな場、時に考えている。その“何故”には実は明確な答えはない。何故ないか、ということが本書でわかる。どこでどのようにそれがわかるか。それは、本書全体を読み終わり、しばらくぼうっと大竹さんのこれまでの作品、言動、選曲などに思いをはせて、そういえば家にビールがなかったことを思い出して近所の酒屋に向かって家を出て3分後、ふと目を向けた足元に一頭のクロアゲハのオスがヨタヨタと歩いているのを発見し、飛ばずに地面を這うなんて、いったいどうしたのだろう、と思った刹那クロアゲハの上翅の青が光った、その美しさにハッとした、その“ハッ”は、いったいどこから自分の中にやってきたのか、という問いに対する解答とどこかでつながっている。つながっているのだが、その回路(のようなもの)を言葉で示そうとすると、どうもしっくりこないというかなかなか気持がうまくまとまらない。そのまとまらなさ、まとまらないけどなにか伝える術はないか、と考えたり、言葉以外の方法について思いをはせたりする、それが創作や創造の動機になっていたりしませんか。ということを私は大竹さんの作品から何度も繰り返し、いろいろな形で感得してきた。
 大竹伸朗は、とにかく作り続ける。その姿に“何故”を投げかけるのは危険である。というより“何故”と思うほうがどうかしている。「理由は俺の作品にきけ」としかいいようがない作品群だからである。エネルギーのすさまじさには、何十年か大竹作品と対面しつづけてきた私でも、今でも黙るしかないときがちょくちょくある。というか、私ごときの言葉ではとても追いつけない速度の中に大竹さんはいつもいる。
 だが、そんな大竹伸朗が、心の中を静かに(しばしば熱く)語ることがある。それが「新潮」に連載されていた随筆「見えない音、聴こえない絵」だった。2004年1月号から2025年3月号まで、21年間の長期連載だった。そのうち2018年4月号分までがこれまで3冊の書物にまとめられている。本書はその終盤部分の7年分を収録したものだ。綴られた数年間がコロナ禍にぶちあたっている。創作の原理や、これまでの活動についての振り返り、など過去と現状との行き来がこれまで以上に多く語られている。内省ではない。記憶が記憶を呼び、未来に向けた新たな画の光源となっていったのだ。それはたとえ休息のように見えるときでさえも、止まることのない思いだ。
 目だけが事物を見るのではない。耳だけが物音を聴きわけるのではない。大竹作品のほとんどがそれを伝えている。視覚や聴覚だけではない。あらゆる感覚が立っている。だからこそ、還暦過ぎても警察官に職務質問されてしまうのかも、とも思ったりする本書ではあるが、大竹伸朗のまなざしは実は柔和だ。実は広角だ。実はものすごくミクロだ。実はとてつもなくマクロだ。なおかつ実はしばしばざっくばらんだ。だけど実はもちろん厳格だ。とはいえ実はフレンドリーだ。
 だからといって気楽なわけではない。
 そこのところの塩梅のなんたるかが本書でよくわかる。わかればわかるほど“何故”はそこらじゅうに湧いてゆく。だから“わかる”ということもたちまちのうちに“何故”に打ち抜かれ“わからない”へ還ってゆく。それこそが大竹伸朗のエネルギーというものだ。“わからない”がなくなったときに創作は止まる。だからといって、それがいつなのか、などと考えたりしない。そのため、本書は画家による画家への指南書になったり、するかもしれないしならないかもしれないが、そんなことより世界をどう感じるか、あるいは宇宙をどう触わるか、ということのヒントはたくさん記されている。だが、大竹伸朗はまったくスピリチュアルではない。コンセプチュアルでもない。どこかの文脈に繫げてわかろうとするのは勝手だが、そんなことには気をまったく配らない。大竹伸朗という存在にこれまでまったく気づかなかった人こそ、実はしあわせかもしれない。これから気づいて、その、人のなんたるかを探れるとは。ちょっと較べるものが思いあたらない。ちなみに、まず、現在開催中の「大竹伸朗展 網膜」(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)で現物と御対面いただくのがよろしいかと。

(ゆあさ・まなぶ 音楽評論家/湯浅湾)

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