書評
2025年9月号掲載
特集 新潮クレスト・ブックス フェア
書ききれない痛みを書く
ネージュ・シンノ、飛幡祐規 訳『悲しき虎』
対象書籍名:『悲しき虎』
対象著者:ネージュ・シンノ/飛幡祐規 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590202-5
息をのむようなアルプスの美しい山々のほとり、家族の暮らす山小屋の地下室で、ベッドルームで、キッチンで、男は幼い少女にありとあらゆる性暴力を繰り返した。
その男は、少女の継父であり、下のきょうだいの父親であり、コミュニティのなかで頼りになるとされる男である。要するにそのような男が家の中で子どもに対して振るい続けた性暴力は、誰にも発見されることなく続けられた。
少女は成長しフランスを離れ、アメリカに渡り、二十一歳のときに男を告訴し、九年間の実刑判決を引き出す。それから二十年近くたってから、文学者となりひとりの娘を持つ母となり、子どもへの性暴力とは何かを書き記す。それがこの本であり、その少女がこの本を書いた著者ネージュである。
性暴力はいつ始まったのか、幼くして被害にあった多くの子どもがそうであるように、ネージュもまた、それが始まった時期をはっきり思い出すことができない。だがネージュは、被害を受けた家の地下室を記憶し、別の時にまた新たな記憶を取り戻す。断片的に現れる記憶に触れて母もまた、安全ピンが膣に入った六歳か七歳の娘の姿を思い出す。そういう風に記憶を重ね合わせるようにして、ネージュはそれがいつ始まったのかの記憶を手にする。
性暴力が幼い子どもの身体に何をもたらすか、ネージュは自分の身体に刻印された数々の痕跡を慎重に書き記している。背骨が歪み重度の脊柱側彎症になったこと。三十代の時に卵巣癌になったこと。ひとが耐えられないような痛みに耐えてしまえること。
身体に刻印された暴力だけではない。その痕跡は、大人になってから残り続ける。
祖父から性暴力を受けていたアーティストが、ラジオ番組で性暴力の影響を尋ねられ、自分をレイプしている祖父の息遣いを思い出して失神するので、長い間、自分は走ることができなかったと話すとき、ネージュもまた、レイプに耐えている自分の心臓の動悸を思いながらそれを聞く。兄たちに性暴力を受けた小説家が、鏡で身体を見ることの痛みを記すとき、ネージュもまた、新しい服を買い求める試着室で、継父の欲望の痕跡を見いだし泣く自分の姿を重ねてそれを読む。性暴力を受けた子どもたちは、大人になってからもその記憶に包囲されて生きている。
だからどんな言葉も、近親者からの性暴力が子どもにもたらすものを書き切ることはできない。継父は、ネージュの日記を自分の所有物のように読みコメントした。継父は、ネージュの聡明さや学校の成績の良さを、自分との「特別な体験」があるからだとネージュにいいきかせた。
加害者に感情や能力を名付けられることは、支配が刻印された言葉を手渡されるようなものだ。子どもをレイプするものたちは、言葉を獲得する時期にある子どもから言葉を奪い、子どもの世界を破壊する。
それでもネージュは生き延び、自分に起きたことを娘に話す。話を聞いた娘はまっすぐ母に問う。
――どうしてママのおばあちゃんにも言わなかったの? 先生には? ママは泣いていたの? 学校でも、それともおうちだけ? どうして誰も、ママがなぜ泣いているか訊かなかったの?
こうした問いかけ自体、ネージュの娘が、母は自分の絶対的な味方であることを信じ、子ども時代を守られ育てられている証だろう。
それはおそらく、ネージュが子どものときに、年下のきょうだいたちを宝物のように思っていたことや、子どもたちだけで駆け回った夏の草原の輝きを手放さないと決めたことも関係している。ネージュの子ども時代はレイプに汚染されている。それでも光り輝くような子どもの時間は確かにあった。そのわずかな時間を軸足にし、ネージュは生のほうに留まり、自分の娘を暴力の奈落に突き落とすことなく暮らし、この本を書きあげた。
私はこの本を、被害にあったかつての子どもや、そしてその子どもたちを、二度とひとりぼっちにしないと願うひとたちに読んでもらいたいと思っている。
性暴力が終わってもなお、生きようと決めたこの世界が平たい大地ではないこと。でもそのような場所で、暴力を手渡さないための営みを続けるひとがいること。そして、今度こそあなたの隣にいたいと願うひとがいること。
こうしたひとつひとつが性暴力を語り、発見し、裁く陣地戦のようなものになる。この本は、その営みを確かに広げる。本当になんという本だろう。
(うえま・ようこ 琉球大学教授)