書評

2025年9月号掲載

特別エッセイ

森茉莉さんのこと――『トットあした』より

黒柳徹子

「息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの」
『恋人たちの森』『甘い蜜の部屋』『贅沢貧乏』の作家は秘密の王国のような部屋に住んでいた――

対象書籍名:『トットあした』
対象著者:黒柳徹子
対象書籍ISBN:978-4-10-355008-2

 森茉莉さんの小説を、私に激賞したのは三島由紀夫さんだった。
 六本木の「鮨長」は三島さんも行きつけにしていて、時おり、顔を合わせた。三島さんの書かれた「熱帯樹」という芝居を観に行ったら、ロビーで私を見かけた三島さんが、文学座の誰かに「紹介して、紹介して」と熱心に言ってくれて、私たちは知り合った。それからは、「鮨長」で会うと、「僕はシャンソン歌手になりたい」とか「今は襟の高いシャツが流行なんだ」とか、朗らかに、いろんな話をしてくれた。
 ある夜、三島さんはあの特徴的な大きな目を輝かせながら、
「なんたって、あの時代に『枯葉の寝床』や『恋人たちの森』を書いたんだから、すごいよ(このふたつの小説を森茉莉さんが書いたのはまだ昭和三十年代だった)。ゲイの小説を本格的に書いたのは、彼女が初めてじゃないか」
 と、私に言った。他ならぬ、『仮面の告白』の作者が褒めるのだ。たまたま、そのふたつの小説を読んでいて、他に類を見ない、妖しくて、でも優美この上ない世界に惹かれていた私は、(やっぱり! 三島さんが褒めるくらいだから本物なのね)と納得していた。

1903年、森鷗外の長女として生まれた

1903年、森鷗外の長女として生まれた

 それから何年かたって、茉莉さんと知り合えて、さっそく三島さんの言葉を伝え、
「どうして、ゲイの小説をお書きになろうとお思いになったの?」
 と尋ねると、茉莉さんは、
「私、何かで写真を見たのよ。フランスの映画人とか演劇人がたくさん写っている、パーティか何かの写真で、おおぜいの人がいるんだけど、その中で、アラン・ドロンと、ジャン=クロード・ブリアリがちょっと離れて立っているのに、ふたりの目が互いに合ってたの。見つめ合ってた、というのかしら。その時、あ、これで書こう、と思ったのね」
 と答えた。それより前、ジャン=クロード・ブリアリさんが来日したとき、「徹子の部屋」に出て、話してくださったことによれば、彼とドロンさんは一緒にアパートで暮していた(自分のことを別にハンサムとは思っていなかったドロンさんだが、ブリアリさんが強く勧めたから、俳優になったのだという)。一緒に暮すことの意味は、いろいろあるだろうけど、そのことを茉莉さんに伝えると、
「あら、そうなの! それは知らなかったけど、私は、やっぱり正しかったわね」
 と、うれしそうだった。
 しかし、ふたりの美青年の関係を敏感に察知したことよりも、たった一枚の写真から、あんなに豪華で、なまめかしくて、貴族的で、優雅な小説世界を生み出すことの方が、やっぱりすごいことだ。そんなふうに、茉莉さんは、現実のちっぽけな切れ端のようなものからでも、美の大聖堂を築き上げられる、本当に、稀有な芸術家だった。
 私も茉莉さんもよく執筆していた「話の特集」という雑誌が、ある時、何かの記念のパーティを開き、そこで偶然、茉莉さんをお見かけして、同誌の矢崎泰久編集長から紹介してもらったのが最初だった。
 私たちは、一瞬で、友達になった。パーティの二次会で行った洋食屋さんでは隣りあわせに座って、大食いの私と同じくらい、茉莉さんも見事な食欲を発揮した。ふたりともお酒を飲まないから、食べるのに集中して、オムライスも、カレーライスも、ビーフシチューやなんかも、女学生みたいに、半分こしたりしながら、ガツガツと食べた。
 茉莉さんは当時、「週刊新潮」で「ドッキリチャンネル」という辛辣なテレビ評を連載中で、そこで彼女自身のことを「八十婆さん」と表現していたのを私はおぼえていたけど、とても八十歳には見えなかった。顔が丸くて、しわがなく、血色も良く、手もポチャポチャしていて、表情も豊かで、若々しかった。ただ、頭に巻いたスカーフがちょっとズレると、ピンク色の地肌が見えて、ほとんど毛がないことがわかった。そんな頭が見えていることも平気で、いろんな話をしてくれるのがうれしくて、私たちは一緒に笑いながら、デザートも平らげた。
 そのうち二次会もお開きになって、私が自分の車を運転して茉莉さんを送っていくことになった。世田谷の、かつて私の実家のあったあたりまで来ると、「ここが私のアパート」と茉莉さんが言った。ぽつんとある街灯のあかりに、小さな団地のようなアパートが見えた。
「ねえ、二分、お寄りにならない? お引き止めしないから、二分だけ!」
 私は喜んで、「はい」と言って、二階にある茉莉さんの部屋まで、手をつないで上がっていった。エレベーターはなく、階段をのぼっていって、暗い外廊下を進んだ、つきあたりの部屋のドアを、茉莉さんは「ここよ」と言って、開けた。
「どうぞ、お入りになって。足元、お気をつけになってね」
 なるほど、注意が必要なのはもっともで、入ったところに、空になった、ざるそばや、どんぶりの乗った、出前のお盆が何枚も並んでいて、その脇には新聞がうずたかく積んであり、その上にも、出前のお盆や、どんぶりが重ねて置いてあった。
 それは絶妙のバランスで置いてあるらしくて、一見、微動だにしなさそうだった。(これで、よく崩れないなあ)と私が感心していると、茉莉さんが電気をつけた。そこはお台所兼ダイニングのような三畳ばかりの空間だったけど、物がいっぱいで、とてもここではゆっくり食事が取れなさそうに見えた。キッチンシンクには、半分くらい水が入ったアルミのお鍋が置いてあるだけで、煮炊きした匂いはまったくなかった。ゴキブリが五、六匹、慌てたように、物かげへ走り去った。ふだんなら、ゴキブリが一匹でもいたら、キャーッ! と大騒ぎして、殺虫剤を探し回る私だけど、何も言わなかったし、茉莉さんも平然としていた。
 小さなテーブルがあって、そのテーブルの上にも、いろんな物が雑然と置かれていた。私たちは椅子に腰をかけた。でも、茉莉さんはすぐ腰を浮かし、椅子を動かして、うしろの冷蔵庫を覗いてコーラの瓶を出してくれ、「一本あったから、半分こ、しましょうね」と言って、また椅子を元の場所に戻して座った。いちいち、そうしないと、床に置かれた物が多いから冷蔵庫が開かないのだ。
 それから、栓抜きを探したり、コップを探したりするのに、ひと苦労があった。食器棚はガラスの戸がなくなっていたので、お湯飲みがひとつ、あるだけだとすぐわかった。茉莉さんは、「もう一個、コップがあるはずだわ」と言って、冷蔵庫の横の襖を開けた。そこに襖があるなんて、気づいていなかった私は、びっくりした。
 襖の奥は、茉莉さんのベッドルームになっていた。私は、自分の書斎を「蜘蛛巣城」と称しているくらいだから、どんなに散らかった部屋を見せられても平然としている方だけど、この部屋には驚いた。新聞や雑誌が天井近くまで積み上げられて、窓も見えないし、だいいち、ベッドも見えなかった。ベッドと床の区別もつかなかった。かろうじて、テレビがあるのが見えて、その前のへんまで、かぼそいケモノ道みたいな隙間ができているから、その先にベッドがあるんだなと思えるだけだった。たぶん、茉莉さんはあのあたりの狭い空間で横になって、テレビを見て、原稿を書いているんだと、私は想像した。
 あまり見ているのも悪いから、観察はすぐ切り上げて、私がテーブルに戻って、しばらく待っていると、「あったわ、あったわ」とグラスを持って、茉莉さんはベッドルームから帰ってきた。私はグラスとお湯飲みを洗って、コーラを半分ずつ注いで、茉莉さんが「乾杯ね」と言って、グラスとお湯飲みをカチンと鳴らし、ふたりでコーラを飲んだ。
 あんなに贅沢な乾杯は、それ以前もそれ以後も、したことがない、と今でも思っている。私たちには話すことがいっぱいあった。茉莉さんは、フランス文学者との結婚のこと(「父に言われて撮ったお見合いの写真が、修整のすごく上手な写真館にお願いしたものだから、すごく美人に撮れちゃって、『あれが自分の奥さんになる女性だ』と思っていたら、出てきたのがこれですもの、うまくいくはずないわ」)、離婚のこと、息子さんのこと、パリのこと、いろんな人たちとの交際のこと、小説のことなど、さまざまなことをユーモアたっぷりに話してくださるから、私は笑いっぱなしだった。でも、茉莉さんの話の中心は、やはり、お父さまの森鷗外からどれだけ愛されたか、ということだった。

「すごく美人に撮れちゃっ」たお見合い写真の頃?

「すごく美人に撮れちゃっ」たお見合い写真の頃?

 途中で、「トイレ、拝借していいかしら?」と尋ねると、「どうぞ、お入りになって。あなたのうしろよ」と言った。私の背後に、トイレのドアがあることにも気づいていなかった。中に入って、電気をつけると、やはりゴキブリが四、五匹走って、どこかへ消えた。お風呂とトイレが一緒になっているスタイルだったが、お風呂は使っている様子はなくて、どこも乾ききっていた。
 とにかく、茉莉さんと話をしていると、まわりの光景はまったく気にならなかった。茉莉さんも、「汚くしていて、ごめんなさいね」みたいなことはひと言も言わなかった。あきらかに、茉莉さんにとって、部屋が雑然としていることなど、まったく取るに足らないことだった、というか、まるで目に入ってもいないみたいだった。
 二分の約束は、結局、四時間になった。それでもまだ名残り惜しかった。別れ際に電話番号を交換して、私にとっては、夢を見ているような夜が終わった。

1957年、初の著書『父の帽子』刊行の頃

1957年、初の著書『父の帽子』刊行の頃

 翌日の夜、早速、茉莉さんから電話があった。そして、
「今日は、息子のジャックが恋人を連れてきて、私のベッドの下で、半日、ささやきあってるの。もう、うんざりしちゃう。息子の恋人は、きれいな足を、片方は床にのばして、もう片方は膝を立てているの。彼女は、私の父が吸っていたハヴァナ産の葉巻の、箱の蓋の裏に描いてあった女神に似てるわ。息子は、恋人の膝を軽く抱くようにしてね……」
 などと語り始めた。
 たちまち、私の頭の中に、美しい緑色の芝生の上に、天蓋つきのベッドがあって、その上に茉莉さんが寝そべり、古い映画雑誌を眺めていて、その足元に、ハンサムな息子と美しい恋人がいる、という光景が浮かんでしまった。きっと、茉莉さんの頭の中にも、くっきりと、そんな光景が浮かんでいるに違いなかった。
 やっぱり、天井まで積み上がった新聞や雑誌の山も、床いっぱいの物も、ゴキブリも、全然見えないベッドも、ガラス戸のない食器棚も、身の回りのどんな現実も、茉莉さんの世界からは消えているのだ。どんな部屋に住もうが、それはどうでもいいことで、茉莉さんの才能や美意識はいつだって変わることなく、ひとたび原稿用紙に向かえば、美と悦楽と秩序に満ちた作品を生み出せるのだ。そんなことが、人間には可能なのだ。茉莉さんは、それを私にまざまざと見せてくれた。私は、森茉莉という作家のすごさをあらためて知ったような気がして、息子と、きれいな恋人の話を聞きながら、感動のあまり、受話器を持ったまま、心が震えたものだった。
 そして、誰も寄せつけない、秘密の王国のような、あの贅沢な部屋に、私を入れてくださったのは、私なら、少しは彼女の秘密をわかるだろう、と思ってのことだ、と、私はうれしかった。
 夜、私の家に電話があると、最短でも二時間、長いと四、五時間にもなった。私は、茉莉さんからの電話とわかると、チョコレートなんかを用意して、寝転がって、おしゃべりを楽しんだものだ。
 亡くなったのは、私が外国に行っているときだった。だから、「死後二日たって見つかった孤独死だった」と報じられたのは後で知った。でも、それも、なんか茉莉さんらしいじゃない、と私は思った。

『トットあした』より、森茉莉さんの章を再録しました。 編集部

(くろやなぎ・てつこ 俳優)

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