書評
2025年9月号掲載
今月の新潮文庫
『悲鳴』と『部屋』――同じ題材を全く別の作家が扱うと?
櫛木理宇『悲鳴』
対象書籍名:『悲鳴』
対象著者:櫛木理宇
対象書籍ISBN:978-4-10-101282-7
櫛木理宇『悲鳴』は11歳の時に誘拐され、長期間にわたって監禁されて性暴力を受けて出産し、11年後に解放された女性サチを中心とする物語である。物語は1995年、サチが解放された翌年から始まり、サチだけではなくその幼友達や地元の住人の視点で語られる章もある。舞台は日本のどこかの田舎にある馬伏町という架空の地方自治体である。
この設定を聞いてまず思い出すのは、2015年に話題になったアメリカ・カナダ・アイルランド・イギリス合作映画「ルーム」と、その原作であるエマ・ドナヒューの2010年の小説『部屋』(土屋京子訳で講談社より2011年に日本語版刊行)だ。この作品は19歳で拉致され、7年間監禁されてその間に出産した後、息子ジャックの助けで脱出した若い母親の物語である。女性が誘拐されて長期にわたって監禁される犯罪事例は世界各地にあり、被害者による回顧録や、こうした事件を題材とするフィクションも多数作られている。また同じような気の滅入る小説かと思ってなかなか『悲鳴』に手が出ない読者もいるかもしれない。しかしながら『部屋』と『悲鳴』のアプローチは相当に異なっており、作家や背景となる文化によってこうも違うものか……と思えてくる。
まず違うのはジャンルである。『部屋』は基本的に幼いジャックの目を通して描かれる人間ドラマで、母子の感情の触れあいや行き違いが主題である。母子が監禁の中でも助け合って暮らし、脱出し、苦労しながら外の世界に馴染んでいくまでを描く比較的シンプルな展開だ。一方で『悲鳴』はさまざまな人物の視点が交錯する比較的複雑な構成で、謎解きが絡むミステリ的味付けもあり、かなりスリリングなサスペンスになっている。これは『部屋』の著者のドナヒューが主に歴史小説を得意としている一方、『悲鳴』の著者である櫛木はホラーやミステリの作家であるためだと考えられる。
ふたつめの違いは事件が起きる風土の描写である。『部屋』も『悲鳴』も厳密にはどこにあるのかわからない、おそらく架空の街が舞台だが、その扱い方が大きく違う。ドナヒューはカナダに住むアイルランド人であり、アイルランドを舞台にした作品が多いが、『部屋』はおそらくアメリカ合衆国を舞台にしている。地元の文化などはほとんど特定できる形で描かれておらず、世界のどこでも起こり得るような話であり、そこが恐ろしいのだ……として意図的に抽象化されているところがある。これに対して『悲鳴』において架空の地名が用いられているのは、舞台となる馬伏が日本の田舎の嫌なところを寄せ集めたような場所であるからだ。『部屋』では二人が脱出後にテレビ番組で無神経な質問をされたり、家族が戸惑いを示したりするような描写はあるものの、世間が向ける奇異の目は本作の主題ではない。しかしながら『悲鳴』において、解放されたサチは町の人々からセカンドレイプを受け続ける。サチが尊厳を奪われ続ける状況は馬伏の性差別的、男性中心的、保守的な文化と結びついている。監禁事件もそうしたミソジニー的文化の産物であるということが前面に押し出された展開になっており、これがさらに悲劇を呼ぶ。こうした犯罪被害者、とくに女性被害者に対する世間の極めて冷たい視線を描くことが本作の主題と言ってよい。これは被害者叩きや女叩きが娯楽として消費されている日本社会のある種のリアリティを示している。そしてこの冷たい視線は何も田舎だけではなく、都会にもインターネット上にも存在していることを考えると、実に救いのないやり方で日本の現実を描いていると言える。
そして両作の一番大きな違いは生まれた子どもの扱いだ。『部屋』のヒロインは性暴力の結果として生まれたジャックを監禁生活で唯一の幸せの源として心から愛している。一方で『悲鳴』のサチは娘のエリカを全く可愛いと思えず、結局里子に出すことになる。性暴力によって生まれた子どもとどう付き合うかは人によって大きく異なるため、いずれも現実にあり得ることだとは考えられるが、ヒロインの強さと母性を強調している『部屋』に比べると、『悲鳴』はよりヒロインを理想化していない。
このように『部屋』と『悲鳴』は、よく似た設定であるにもかかわらず、大きく焦点が異なっている。二作を読み比べてみることで、作家ごとに何に関心があるのか違いがわかってくる。とりわけ『悲鳴』はより悲観的な形で日本社会の現実の厳しさを描いている小説だと言ってよいであろう。
(きたむら・さえ 武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授)