書評

2025年9月号掲載

今月の新潮文庫

濃さや深みの格段に増した最高傑作

マイクル・コリータ、越前敏弥 訳『穢れなき者へ』

吉野仁

対象書籍名:『穢れなき者へ』
対象著者:マイクル・コリータ/越前敏弥 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-241041-7

 ページをめくる手がとまらない。これほど夢中になって小説の世界に没頭してしまったのも久しぶりだ。
 物語は、漂流するクルーザーに乗り込んだイズレルがそこで七つの遺体を発見する場面からはじまる。場所はメイン州サルヴェーション・ポイント島の沖あい。被害者七人のうちふたりが上院議員の候補者だったことから、尋常でない事件として捜査がはじまった。そして、実の父親を殺して十五年服役した過去をもつイズレルもまた容疑者のひとりとなった。
 一方、隣の島リトル・ヘリング・レッジ島で父とふたりきりで住んでいる十二歳のライマンは、父の暴力から逃れようと隣家の廃屋へ逃げ込むと、そこに隠れていた若い女性を目にした。血まみれの彼女は手に斧を持っており、そのことからライマンは彼女をハチェット(斧)と呼んだ。
 本作『穢れなき者へ』の原題は、An Honest Man、「正直な男」。だが、イズレルにせよ、ライマンにせよ、けっしてすべてを正直に語るわけではないのは、人に明かせない秘密を隠しもっているせいだ。ライマンの場合は、父に暴力をふるわれていることとハチェットを匿っていることだが、イズレルのほうはいろいろと複雑だった。彼の叔父スターリングは、島でただひとりの郡保安官補をつとめている。スターリングがメイン州警察の警部補サラザールを連れてやってきたとき、イズレルは初対面を装ったものの、じつは彼女とは以前からの知り合いだった。上院議員候補者ふたりを含む七人の殺害事件の裏には、さらに凶悪な犯罪と隠された秘密があったのだ。
 こうしてイズレルとライマン、それぞれの視点による物語が交互に語られるわけだが、緊張感や危機感がもっとも高まった状態で中断され次の章に移るという「クリフハンガーの手法」が織り込まれているため、後半からクライマックスにかけて興奮がとまらなくなる。傷を負ったまま廃屋に隠れる女性ハチェットと謎の捜査官サラザールというふたりの女性たちの存在も怪しく、どこまでも目が離せない。
 様々なジャンルのサスペンスを手がけてきたマイクル・コリータだが、本作は、これまでのどの邦訳作品よりも格段に濃さや深みが増している。惜しくも受賞は逃したが、2024年度のMWA(アメリカ探偵作家クラブ)エドガー賞最優秀長篇部門にノミネートされたのも当然だ。
 マイクル・コリータは、私立探偵リンカーン・ペリーを主人公とした長篇『さよならを告げた夜』で2004年にデビューした。ほかに犯罪サスペンス『夜を希う』、超自然的な要素をもつスリラー『冷たい川が呼ぶ』などがある。だが近年のコリータ作品でもっとも有名なのは、邦訳はされなかったが、映画「モンタナの目撃者」の原作となったThose Who Wish Me Dead(2014)だろう。監督はテイラー・シェリダン、主演はアンジェリーナ・ジョリーで、作者も脚本で参加している。物語は、十代の少年コナーが目前で父を殺害した冷酷非情な二人組の暗殺者からひたすら逃げようと試み、それを知った森林火災消防隊員のハンナが少年を助けようと奮闘するが、激しい山火事が迫っていた、というもの。この映画をあらためて見なおしたところ、前半、ヒロインが監視塔に向かう場面で、手に斧をもっているではないか。斧が彼女の武器なのだ。
 どうやらコリータは、ゲイリー・ポールセンによる児童小説『ひとりぼっちの不時着』がお気に入りで、大きな影響を受けたようだ。これはカナダの森林地帯に不時着した十三歳の少年のサバイバル物語である。この原題がHatchetハチェットなのだ。またポールセンの作品には、噓つき少年ケヴィンを主人公にしたLiar, Liarシリーズがある。作者コリータは、『穢れなき者へ』にこうした要素をとりこみながらも、まったく独自の犯罪サスペンスを構築した。森林地帯で繰り広げられる「モンタナの目撃者」とはまた大きく異なるメイン州の島を舞台に、力強いサバイバルスリラーをつくりあげたのだ。
 わたしがなにより読みどころだと思うのは、ライマンとハチェット、ふたりの関係の微妙な変化である。最初はお互いに疑心暗鬼でぎこちなかったが、次第に心を通わせていく繊細な描写がていねいに積み重ねられていた。とくにラストのある場面は、まるでスローモーションタッチの映像を見ているかのごとく描かれており感動的だ。読みだすとやめられないサスペンスとともに、こうしたドラマづくりの巧さをぜひ堪能していただきたい。

(よしの・じん 文芸評論家)

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