書評
2025年10月号掲載
角田光代『神さまショッピング』刊行記念特集
彷徨を続けるための体力
対象書籍名:『神さまショッピング』
対象著者:角田光代
対象書籍ISBN:978-4-10-434609-7
「にせ巡礼」「神さまショッピング」「絶望退治」──タイトルのかろやかさに油断していると、いつのまにか心の深いところを静かに抉られている。おそろしい短編集だ。
私は子どもの頃から、初詣などでどこかに参拝したときには「弟ふたりが幸せでありますように」と頼むと決めて生きてきた。自分のことは自分で何とかしたほうが速いし、世界の紛争や飢餓については神頼みよりも寄付など具体的な行動をしたほうが良い。そんな、ある意味で非常に不遜で現実的な考えが当時はあったと思うのだが、弟たちがとっくに大人になった今でもその習慣を変えられないのは、自分の本当の願いと真正面から向き合うのが怖いからだ。
だからだろう。合掌した両手を早々にほどき目をあけた自分の隣で、友人や夫が目を閉じたまま長く願いごとをする姿を見るとぎょっとしてしまう。このひとは一体、どんなことを願っているんだろう。ぎょっとすると同時に、真剣に何かを祈っているひとの姿に羨望の念を抱きもする。
本書に収められた八篇の主人公たちは自分にとっての特別な「神さま」を探し求め、スリランカ、香港のレパルスベイ、ガンジス川、パリなどへそれぞれ旅立つ。彼女たちは私を含めた多くの日本人と同じく特定の信仰を持たない。宗教とは無関係にショッピング感覚で「神さま」を探訪する態度はいかにも現代日本人的なのだが、ここには著者の前作『方舟を燃やす』に続き、何かを「信じたい」私たち、何かにすがらなければ生きていけない人間の弱さとそれゆえの生の愛おしさが真摯に語られている。
どこかへ行き、帰ってくること。ひとつの願いや逡巡を通過すること。何も変わっていないように見えて、その前後で何かが決定的に違ってくる。つまり、短編小説という形式と物語の内実が強靭に嚙み合った一冊でもある。
主人公の多くは、外から見れば比較的平坦な日々を送っているように映る女性たち。三十代から五十代、もう若くはないが年老いてもいない。彼女たちの内面には濃淡の差こそあれ空虚が巣食い、あるいは家族との齟齬や孤独をうっすらと感じている。願いごとは必ずしも善の側のものばかりではない。「神さまに会いにいく」「絶望退治」での願いごとは、人に言えないような冷えびえとしたものだ。また、主人公のうち何人かは自分の願う「しあわせ」が何なのか、自分の願いが何なのかを摑みきれずにいる。たとえば「落ちない岩」の「私」はミャンマーの聖地チャイティーヨーを再訪するが、「しあわせになりますように」と願った十七年前の自分をもはや別人のように遠く感じる。「しあわせ」とは一体どんな状態なのか。「神さま」を前にした瞬間にかえってそれがわからなくなったり、おそろしいことを祈る自分に耐えられず結局何も願わずに帰ってきたり、猥雑な観光地と化した聖地に拍子抜けしたり。彼女たちの辿る旅路は単純ではなく、リアルな感情の起伏に富む。
印象的なのは、主人公たちが目撃する他人の「神さま」との距離感である。サンティアゴへの巡礼に犬の写真を持参した女性、縁切り神社で母親がこの世からいなくなるよう願う青年、スピリチュアルな世界に傾倒しガンジス川で無邪気に沐浴する夫。屈託なく「信じる」の側に身を置く人物たちと主人公との感情のズレがひんやりと浮きあがる。〈浄められるというのは、存外におそろしいことなのではないだろうか〉。「信じる」「信じたい」をめぐって、一篇一篇にほの暗い枝々が重層的に張りめぐらされている。
引きこもりの息子の癎癪に怯えながら暮らす「絶望退治」の主人公・鶴子は独白する。〈私たちの日常生活のそこここに裂け目があり、そこから洞穴は暗闇を覗かせていて、幸運にも、まったく気づかず、裂け目に足を取られることなく歩いていく人もいれば、気づいてしまって恐怖に立ちすくむ人もいる。気づいたときには足を踏み入れていて、深く深く落ちていく人もいる。私たちはそういう場所で暮らしている〉。
孔雀が横切り、自撮り棒が蠢き、無数の絵馬に願いごとがきらめく。足元にぽっかりと口をあける絶望という洞穴に対抗するかのように、国内外各地の願掛けの場は人間の営みの猥雑なエネルギーに満ちている。ときに滑稽で、ときに過剰。世界の裂け目を覆い隠すほどの眩しい光だ。その眩しさに触れた感覚は、彼女たちが家に帰ればたちまちに消えてしまうものかもしれない。それでも、はるか昔から人間はそうして眩しさと裂け目の間を行き来しながら必死に生きのびてきた。この心細い現世を彷徨い続けるための体力が腹の底から湧いてくる一冊だ。
(おおもり・しずか 歌人)