書評
2025年11月号掲載
抗戦派・豊臣秀頼の面目
笠谷和比古『論争 大坂の陣』(新潮選書)
対象書籍名:『論争 大坂の陣』
対象著者:笠谷和比古
対象書籍ISBN:978-4-10-603937-9
大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川家康は、慶長20年(1615)5月8日、京都・二条城に凱旋した。まもなく仏教諸宗の僧侶を集めて、しきりに論義(論議=法門問答)を行い、自らも熱心に聴聞した。天台論義が開かれ、真言論義、浄土法問、曹洞宗法問も催されている。真言論義の題には、「肉身を指て即身成仏か、肉身を捨てず成仏か」「清浄の行者は涅槃に入らず、破戒の比丘は地獄に堕ちず」などが散見される。大坂の両陣を終えた家康は、いまや死への旅立ちを強く意識していた。明らかに、豊臣滅亡後、彼の関心は現実政治から死後の世界に変わったのである。私も、数年前に出した『将軍の世紀』上巻(文藝春秋)のなかで、大坂の両陣を扱ったことがある。その時、家康が孫婿の豊臣秀頼を母淀殿とともに死に追い込み、秀吉による託孤の遺命に背いた因果の重さを、諸宗論義によって深省しようとしたのではないか、と解釈したものだ。
笠谷和比古氏の新著『論争 大坂の陣』でいちばん興味を魅かれたのは、5月7日の最終決戦当日、陣立てが完了した朝方から、いざ総攻撃に移る午後1時頃まで異様に長い時間が経過した事実である。家康は、戦闘命令を発するまで6時間も部隊がじりじりするほど待機させた。軍法として異例のことだ。そもそも家康の出陣は、豊臣の無力化が目的であり、家を滅すまで決意していなかった。家康は命令を下すのを逡巡したのである。そして笠谷氏は、次のように明言する。「想像を絶する大激戦となってしまった結果、秀頼と淀殿の命まで奪わざるを得なかった展開に深い悔悟の念をいだいていたことであろう。秀頼の行く末を哀願した秀吉に対する罪責の念も、ひとかたならぬものがあったに違いあるまい」。
もっとも、豊臣滅亡には家康だけが責任を負うべきでなく、秀頼の不退転の決意も与かって大きかった。笠谷氏の新著は、母淀殿の孝子のイメージが強い秀頼が母の和平指向を一蹴するほどの徹底抗戦派だった点を強調している。一般的な理解では、秀頼が淀殿の強烈な反徳川意識に引きずられて開戦に走った印象が強い。しかし、織田有楽斎(信長の弟)の証言によれば、淀殿と家老の大野治長は豊臣家の存続をはかるために決戦の回避を望み、淀殿が人質として江戸に移るので戦を思い止まるように、秀頼に「哀願」した。にもかかわらず、秀頼はいちばん強硬な態度を崩さなかったのである。秀頼は、「命を惜しんでの屈服恭順のごとき戯言は、わが髑髏に向かって言え」とまで語気を強めた。豊臣秀頼は、決して文弱の徒ではなかったのである。この秀頼像は、新著の機軸ともいうべき重要な見方だろう。
そもそも家康は、関ヶ原合戦に勝利を収め、まもなく征夷大将軍になっても、笠谷氏が東西二重国制や二重公儀体制と呼ぶように、西国には徳川の親藩譜代大名をあえて置かず、豊臣系領国大名を配置する政治体制を維持した。西国における豊臣家の権威を尊重したのである。豊臣への遠慮を象徴するのは、関ヶ原合戦前の石高の2倍、3倍の大封を得た黒田・池田・福島・両加藤・浅野・山内らの国主大名に家康が領知宛行状を出さなかったことだ。“出せなかった”というべきかもしれない。笠谷氏は、関ヶ原合戦時に九州で西軍大名の領地を切り取った黒田如水が藤堂高虎に、切り取り分の拝領を内府様(家康)から秀頼様に取り成すように頼んだ書状を紹介している。秀頼は単純な一大名ではなかったのだ。しかも、秀頼家臣団の知行地は大坂周辺だけでなく西国各地に広く点在していた。氏は、豊臣色の強い西国の中でも、とくに畿内から備中(岡山県)にかけては、豊臣領国の観を呈したといっても「過言」ではない、と形容している。
大坂の陣の開戦理由となったのは、方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の八文字が含まれ、家康の諱を切断し、豊臣の繁栄を祈る呪詛に充ちているという猜疑であった。これは徳川の言いがかりとばかりはいえない。笠谷氏によれば、鐘銘文の撰述者・清韓による「家康」の字の切断は意図的な行為であり、人の諱をそのまま使うのは当時の礼法上まことに非礼なのであった。氏は、「豊臣」の豊を織り込んでいるが苗字を使うのは非礼ではないという。秀吉や秀頼という諱には「秀」や「吉」のように祝賀の文章にふさわしい字が入っているのにこちらは使わない。清韓や豊臣方に悪意があったのか、単なる不注意だったのか今では分からないにせよ、不見識のそしりはまぬがれない。
いまや神話化した真田信繁隊による家康本陣の急襲と旗本らの潰走は、実は天王寺口の毛利勝永隊との混同である。三里ほども家康本隊が退却した戦は、島津家久という信頼できる情報伝達者が本国に伝えたものだけに、広く信じられてきた。「真田日本一の兵」なる島津の有名な証言は、一次史料ながら伝聞によっている。それは直接体験ではないと史料学の厳しい教えも忘れない。大坂の陣と豊臣滅亡の悲劇の多面性を改めて論争風に示してくれた労作として、本書は多くの読者に迎えられるだろう。
(やまうち・まさゆき 東京大学名誉教授・武蔵野大学客員教授)


