書評

2025年12月号掲載

ズレてゆく、男と女の愛の認識

白石一文『睡蓮』

柴門ふみ

対象書籍名:『睡蓮』
対象著者:白石一文
対象書籍ISBN:978-4-10-305658-4

 傍から見れば羨ましい限りの理想的なカップルでも内実は異なっていたり、あるいは経年劣化による亀裂の修復が利かなくなったりで、驚きの破局を迎えるケースは少なくない。白石一文さんの最新作『睡蓮』では、まさにそんな夫婦が描かれている。
 完璧な異性に、完璧に愛される。智子は文字通り完璧な結婚生活を送っていた。少なくとも彼女の義妹の櫻子は、そう思っていた。櫻子の兄であり智子の夫である貴之は、頭脳明晰、スポーツ万能、ルックス最高のエリート銀行マンである。しかも智子にぞっこんで、他の女には目もくれない。
 こういうスーパーモテ男は、ともすれば空々しく噓っぽい人物になりがちだが、妹・櫻子の視点で語られるため、貴之は努力もすれば苦悩も抱える、リアリティのある魅力的な登場人物として伝わってくる。

〈兄の優秀さというのは、むろん持って生まれた部分も大きいが、それ以上にその異様なほどの集中力によって支えられているということだった。〉

 そして、その貴之の「集中力」が妻に向けられ続けたことが、この物語の悲劇を生み出す。

〈この世界は、男が女を幸せにするべき世界なんだ。〉
〈何千年にわたって妻や恋人、娘、母親を幸福にするにはどうすればいいかを考えつづけてきた〉
〈男は女を幸せにすることで自分も幸せになれると信じている〉

 貴之語録であるが、戦後昭和生まれの男性は大きく頷くのではないだろうか?
「キミを守る」「キミを幸せにするのは、俺だ」
 昭和の時代、プロポーズの決めゼリフとして長らく使われてきた。しかし、と私はずっと思っていた。「私の幸せは、私が決める。あなたに私の幸せの何がわかるの?」
 半世紀も昔の娘時代から、ずっと私はそう感じていた。
 なので、智子の
〈私の人生は私のもので、あなたのものではない。誰かの人生の目的にされるなんて迷惑だ〉
 という言葉に、強く賛同する。私だけでなく、「智子」に自分を重ね、感情移入する中高年女性は多いのではないか。~智子のように、完璧な夫に愛されたわけではない。けれど、完璧な夫と結婚したところで幸せな結婚は手に入れられなかったのね。私が不幸なのは夫選びに失敗したのではなく、自分の人生を生きなかったことかも~。多くの女性読者は、本書を読んでそんな風に感じるのではないか。
『睡蓮』に悪人はひとりも登場しない。みんな精一杯人を愛し、人から愛されたいと望んでいる。貴之の間違いは、自分の愛し方だけが「正解」だと思い込んでいたところだ。これは自信家の男性に多く共通する。
 また、結婚生活に不満を抱える智子のような妻たちは、夫と真反対の男性を選べば幸せになれるかもと妄想する。
 白石一文さんは、そんな男女に甘い砂糖菓子は与えない。そこが、しびれる。
 自信たっぷりでクールな高学歴エリート夫とは真逆の、学歴は無いけれど生活力抜群の善良で情の熱い男を選んだとして、それで幸せになれるかというと、そうとも限らないのが、人生の悩ましいところである。

 一枚のモネの睡蓮の絵を見たことをきっかけに、智子の夫へのいら立ちはピークに達する。
〈私の人生を取り戻さなきゃいけない、もうこれ以上、あの人に奪われるわけにはいかない〉
 世の男性は、妻にこう思わせないように細心の注意を払わなければいけない。男が「愛」だと思いこんでいるものが、妻にとって「支配」と「監視」だと感じられるようになったら、2人の関係は確実に終わるのだから。
 結局男と女はすれ違い続け、永遠に分かり合えないものなのか?
 老いの入り口で、人生をしみじみ振り返りたくなる、『睡蓮』は、そんな一冊だ。

(さいもん・ふみ 漫画家)

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