書評
2025年12月号掲載
詩の窓から、詩人の生を覗き込む
谷川俊太郎『ひとりでこの世に』
対象書籍名:『ひとりでこの世に』
対象著者:谷川俊太郎
対象書籍ISBN:978-4-10-401809-3
詩を書き始めた十代の終わりから、私は詩という言語活動を十全に信じていなかった。そのせいで詩を対象にして詩を書くことも少なくなかった。本来は散文で論じるべきことを詩で書くのは、詩が散文では論じきれない部分をもつことに、うすうす気づいていたからだろう。(『詩に就いて』谷川俊太郎著/思潮社)
詩集『詩に就いて』のあとがきにある、谷川さんのこの言葉がわたしは好きだ。2023年9月、谷川俊太郎さんが亡くなられる前年に、雑誌の企画で谷川さんと対談する機会に恵まれて、わたしは持参したこの詩集を手に、どうしてこのタイトルをつけたのかと問いかけた。
「それは、詩がわからないからだよ」
その声に、謙遜や冗談の気配はなく、「本当に困ったやつなんだよ」といった、詩に対する親しみを感じた。
「小説は好きだが詩はよくわからない」という声は、わりと頻繁に聞くことがある。散文とは違って、詩の「わかりにくさ」は批判の対象にはならない。言葉足らずだからこそ、十人十色の読み方が生まれる。足らない部分に余白があり、明るい自由がある文学の形である。詩人は誰しも、「詩とはなにか」という問題に立ち向かいながら詩を書き続けるものだ。「詩とはなにか」という問いについて明確な答えを持っている人は、詩を書かないものだとさえ思う。
本書『ひとりでこの世に』は、谷川さんが六十五歳以降に発表した単行本未収録詩篇を中心に収録している。
冒頭を飾るのは、「死んでから」という作品である。
死んでからもうずいぶんたつ/痛かった思い出が死後はむず痒くなった/私という存在が何かに紛れてゆくが/その何かを呼びたくとも/言葉はもう意味をなさない/(中略)/死んでからも魂は忙しい
谷川さんの作品を読もうとしたら、「魂」になった谷川さんの生々しい横顔を見た気がして、どきりとした。一般的に、詩集は好きなところから開いて読み始めていいものだが、この詩集にかぎっては、まるで小説のように、頭から順に読んでいく必要がある。この詩集は、谷川俊太郎の単行本未収録作品を読むために編まれた詩集ではなく、詩人「谷川俊太郎」の軌跡を、未発表の詩篇から覗き込む、私小説的な性格をもった「私詩」集だからだ。
付録の散文(「詩」というもの)をいれて、全部で八章立てにされているが、それぞれの章が独立してあるのではなく、まるで話の「流れ」のように、前章の流れを受けて、次の章が始まる。例えば、第二章の終盤に「僕は幼児へと進化して/喃語の世界でうたた寝している」(「岩」)という詩行が登場すると、続く第三章では、幼児の世界を思わせるひらがな詩がつづられていく。次章では幼児は青年に進化し、さらに詩の深淵に向かって言葉の舟を進めていくかのような流れが生まれている。やがてこの青年には妻ができて、「歩くのが覚束なくなって外へ出ない」老人になるまで、進化を続けてゆく。大詩人が幼児になり、また人生を生き直すかのような構成である。
四行詩が、連詩のような形でつづられていく章(「piano tweet」)があって、それがまるでソネットのようにも見えるのだが、実は前の章で、「ソネット」にまつわるエピソードが語られている。(「内なる子ども」)
谷川さんにとって、ソネットは単なる詩の手法ではなく、幸福な青春時代の象徴なのだろう。冒頭から読み進めていくからこそ、一つ一つの章に絶妙な香りが生まれている。すこし、推理小説じみた楽しみもある。
妻も自分も「他人」だと詩にかいている谷川さんが最晩年まで詩人たちとの交流を続けていたことも、本書から窺い知ることができる。かく言うわたしも、谷川さんに交流していただいた詩人の一人である。「二十億光年の孤独」を書いた孤高の大詩人の遺作が、本書に収録されている覚和歌子氏との対詩だったことも興味深い。
表題作「ひとりでこの世に」の一つ前に、「その猫 岡﨑乾二郎に」という詩が置かれている。
その猫は歩かない/その猫は鳴かない/その猫は立っている/その猫は猫ではないかもしれない/(中略)/その猫をなんと呼べばいいのか
この詩に描かれる「猫」は詩なのではないか。詩は人の手で、情景を「描」くものだが、理性によるコントロールを超えて、人間の獣じみた部分が顕れることがある。獣偏の詩、それが「猫」なのだろう。また、詩は孤高の詩人を地上にとどめおくための「錨」の役割を果たすこともあったにちがいない。詩は「苗」でもある。苗はたくさんの言葉を繁らせ、ときに果実をもたらす。
詩人「谷川俊太郎」の生きた軌跡を、その詩篇によって垣間見る。そんな芳醇な体験を、この詩集は与えてくれた。
(まーさ・なかむら 詩人)



