書評
2025年12月号掲載
権力の頂点で味わった「失敗の日々」
安井浩一郎『独占告白 渡辺恒雄 平成編─日本への遺言─』
対象書籍名:『独占告白 渡辺恒雄 平成編─日本への遺言─』
対象著者:安井浩一郎
対象書籍ISBN:978-4-10-354882-9
2021年当時、齢九五歳の渡邉恒雄は、自らが率いる読売グループの新入社員に対し、「これから何でもできると言ったら語弊があるが、相当なことを筆の力でやるチャンスが必ずある」と激励したという。そのためには「本や文献、その他政治に関するものを徹底的に読んで、政治家よりも知識と判断力を持」つことが肝要である。そうやって「政治家を教えるつもり」で「紙面で勝負をする」といい。
そういうことをやっているうちに敵もこっちの力を認めてくるわな。政治家も敬意を表して二人だけで会ってくれる。特ダネを書けるようになって、デスクに大きな顔ができる。部長も敬意を表してくる。で、いつの間にか、こっちが部長とか社長とかになっちゃうの。こういう具合に持っていかなきゃいかんね。(二九一頁)
これを聞いた新入社員ははたして元気が出ただろうか。自らの出世の追求が、同時に国や政界の(無論良い方向への)動きに結びつく。楽観的といえばこれほど楽観的な言葉もない。そんな漫画みたいなうまい話があるものかと思ったものも多かったのではないか。
だが、渡邉からすればそこに噓はない。自分がその実例だからだ。創業者一族でも、閨閥でもないにもかかわらず、グループ全体を率い、依然として「九五歳でまだ権力のてっぺんに」(二九〇頁)いた渡邉の人生そのものが、何より雄弁な証拠なのである。
本書の姉妹編である『独占告白 渡辺恒雄―戦後政治はこうして作られた―』(新潮社、2023年)をひもとけば、読者は否応なく納得させられることになる。陸軍に召集された後もカントの『実践理性批判』を肌身から離さなかった哲学青年は、やがて新聞記者になる。命の危険を顧みずに、武装した共産党の基地に潜入してスクープをものにする。やがて政治部に転属。自民党の大物・大野伴睦の懐に飛び込み、ほとんどそのブレーンとして活躍、戦後政治史の一大画期である日韓国交正常化を演出する。かたわら、まだ一陣笠議員だった中曽根康弘を見出し、ともに勉強会を重ねつつ、その出世を仲立ちしてみせる。権力の階梯を駆け上っていく「盟友」中曽根と歩調を合わせるようにして社内でも出世していく1980年代、昭和最後の日々は渡邉の人生のハイライトである。一国の経綸への参画と、個人の立身出世とのあいだの幸福な調和、新聞記者の「英雄時代」がそこに現れる。
だが、物語は「めでたしめでたし」で終わっても、人生は続く。1991(平成3)年、読売新聞社社長に就任した渡邉のその後の平成の日々を追った本書(平成編)には、昭和編にはなかったどこかビターな味わいが残る。無論、転落し、落魄したというのではない。渡邉は世を去るその日まで「権力のてっぺん」に居続けた。電話一本で一国の総理と直接会話し、時には自らのオフィスに呼びつけることさえ可能だった。
だが、そうであるにもかかわらず、平成編に漂うのは昭和編にあったようなピカレスクロマンの爽快さではなく、老英雄がその後日譚でまとうことになった言い様もないもどかしさや焦燥感の方である。
平成の政治空間は渡邉にとって、快適な空間とはいえなかった。大野伴睦や中曽根康弘のような政党生え抜きの「党人派」の系譜を好み、佐藤栄作や福田赳夫といった「官僚派」を嫌った彼にとって、その本拠ともいうべき清和会の天下は苦痛だった。清和会出身である小泉純一郎がその「ワンフレーズ・ポリティクス」を駆使して、敵味方を峻別し、演出した二大政党制的な平成デモクラシーも彼の好みではなかった。彼が好んだのは若き日の「保革連立政権論」に象徴的に現れているように、玄人の政治家たちが合従連衡する連立・連合的な政治空間の方である。
自自公連立に、自民党と民主党(当時)の大連立構想。平成の政治空間に連合のモメントを持ち込もうとする動きの背後には必ず渡邉がいた。そうした「手入れ」が最終的に失敗に帰した2007年の「大連立構想」の顚末を明かした第七章は本書の最大の読みどころだろう。
若い日々であれば可能だった政治家への細部に亘る入念な振り付けがこの時期にはもはや不可能になり、一本の電話で済まさざるを得なくなっていた。それは渡邉自身がすでにメディアに注目される存在となったことのいわば「有名税」(二七六頁)でもあった。メディアを自己の資源として縦横無尽に利用し尽くしてきた男はいまやメディアの格好の餌食だったのである。「ナベツネ」の悪名を高からしめた巨人軍オーナーとしての言動をめぐる報道もまたその意味で寓話的でさえある(第三章)。
渡邉がその功労者の一人だった自公連立は、公明党の離脱により終焉を迎えた。だが、単純な成功譚ではない平成の「ナベツネ」の失敗の日々は平成政治がまさに終焉を迎えつつある今、玩味する必要があるのではないか。
(こうの・ゆうり 法政大学教授・政治学者)




