書評
2025年12月号掲載
大家族としての帝国ソ連は、いかにして維持されたか
池田嘉郎『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)
対象書籍名:『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)
対象著者:池田嘉郎
対象書籍ISBN:978-4-10-603938-6
本書は、わが国におけるロシア近代史、とりわけロシア革命史研究の第一人者池田嘉郎氏による、ソ連の六人の指導者の、一種の列伝である。「悪党」という呼び名には、道徳的な意味はない。この語は、彼らが為したことの法外なスケールの大きさ(たとえば犠牲の多さ)を指している。
一言でいえば、本書は非常におもしろい! 「魅力的」というには憚られる人物も含まれているが、それぞれの指導者の幼き日からの人生の細部は、そこに含まれる人間関係や権力闘争を含めて、いずれもとても興味深い。六人の指導者で、七四年間のソ連史全体を覆っている。
そのおもしろい細部はここでは紹介できないが、池田氏は全体を通じて、ある一つのことを証明しようとしているので、それだけは説明しておこう。歴代の指導者はいずれも、ソ連という共同体を維持し、発展させようとした。それは「大家族」に喩えられる共同体だ。その特徴は、近代ヨーロッパの「市民社会」との対比から明らかになる。後者では、個人としての権利をもつ「市民」がまずあって、その上で社会が存在する。しかし家族共同体としてのソ連では、全体が個人に優先する。市民社会と異なり、統治者の意思は法の上に立つ。だから「帝国」だとされる。
池田氏によると、「全体が個に優越する家族的共同体」という像は、ロシア思想の中にあるサボールノスチという語につながっている。その意味で、これはロシア史を貫く定数のようなものなのだが、ロシア帝国の伝統をそのまま継承するとソ連という共同体ができあがるわけではない。身分制のロシア帝国には、農民も貴族もひとしく包括する「ロシア人」というアイデンティティは存在しないからだ。
決定的な役割を果たしたのが、「共産党」である。共産党という媒介者が、いかにして大家族としてのソ連の形成に貢献したのかを、池田氏の叙述にそって見ておこう。
まずは革命の指導者レーニン。彼が、あるべき人間関係の雛形とみなしたのは、まさに家族──個人がエゴイズムを捨てて奉仕すべき家族──である。ただしレーニンにとっては、それは、革命を指導する集団である党の人的結合の理念である。人民全体の共同性の原理ではない。
党の理想の姿だった「家族」という像を、ソ連の人民全体に拡張したのが、スターリンである。いいかえれば、人民のあるべき姿が、党というかたちで具体化されている、と見なされたということである。その際スターリンが重視したのは、各人の民族的帰属だ。人民は、それぞれの民族であることを通じてたがいに同胞だ、といった具合、である。こうして仲睦まじい大家族としてのソ連ができあがった……か、といえば、逆である。その逆説的で悲惨な結果を極端なかたちで示したのが、1930年代後半の「大テロル」、自国民へのすさまじい規模の弾圧だ。
フルシチョフはスターリンを批判して、ソ連内外の共産主義者に衝撃を与えた。そのフルシチョフが失脚した後、ソ連のトップに立ったのがブレジネフだ。ブレジネフ時代の二〇年弱が、ソ連帝国史上、最も平穏な時代だ。ブレジネフは「帝国の大成者」だ。が、この平穏には代償がある。フルシチョフは、ソ連は「共産主義」の段階に入ったと主張したが、ブレジネフは「発達した社会主義」だという。ブレジネフは、ソ連の現実をユートピア的な世界だと見せかけようとせず、また資本主義の死滅をねらっているというスタイルも捨てている。「優」はとれなくても、「不可」でなければいいや、とのんびりしている、成績の低い大学生のようなものだ。
こうした停滞を打開し、経済を加速させようとしたのが、アンドロポフであり、それ以上にゴルバチョフだった。ゴルバチョフの改革は、しかし、本人がまったく意図していなかった結果を産んだ。ゴルバチョフ自身は、ソ連人民と党との一体性を前提に行動していたのだが、気づかぬうちに、人民が党から遊離していたのだ。だが、党との本質的なつながりを抜いたら、人民は、もはや「人民」なるまとまりをもたない。こうしてソ連帝国は終了した。
空中分解した帝国を再構築したのがプーチンである。池田氏はエピローグで、ソ連帝国の「悪党」たちが、プーチンにとって、正/負のモデルとなったと論じている。最も重要な指針は、スターリンだった。
私たちは本書を通じて、前世紀の終わりに崩壊したソ連帝国について詳しくなるだけではない。現在のロシア、ウクライナに「侵略」しつつあるロシアとは何なのか、その行動原理はいかなるものなのか、を理解することができる。ロシアという政治的実体は、西ヨーロッパ・タイプの市民社会とは異なっている。
本書の全体を通じて、モスクワ・タガンカ劇場の総監督リュビーモフが、狂言回しのような役割を果たしている。この人物は、幼い日にレーニンの葬儀に連れて行かれたのを端緒として、人生のさまざまな局面で、六人の悪党の全員に関わった。2025年5月、モスクワのタガンスカヤ駅に、独ソ戦勝利を祝賀するスターリンのレリーフが飾られた。リュビーモフがいた劇場のすぐ近くである。
(おおさわ・まさち 社会学者)




