書評

2025年12月号掲載

描線に宿る思考の痕跡

萩尾望都『萩尾望都スケッチ画集I─「ポーの一族」と幻想世界─』

内山博子

対象書籍名:『萩尾望都スケッチ画集I─「ポーの一族」と幻想世界─』
対象著者:萩尾望都
対象書籍ISBN:978-4-10-399604-0

 萩尾望都先生に女子美術大学の客員教授に就任して頂いて15年。漫画が専門ではない私ですが、これまで30回にわたり、萩尾先生の特別講演会で司会進行役として、さまざまなお話を伺うことができました。代表作「ポーの一族」、「トーマの心臓」はもちろん、SFやファンタジー、ミステリーなど多様な作品を通じて、萩尾先生の創造の世界を今も探索させて頂いています。
『萩尾望都スケッチ画集I─「ポーの一族」と幻想世界─』には、私が知りたかった“創作の秘密”の手がかりとなるようなスケッチが多数、収められています。萩尾先生の思考が、着想された時そのままのかたちで残されていることへの驚きと、創造の原点につながる秘密の世界に入っていくような緊張感を覚えながらページをめくりました。
 優しい揺らぎがある描線は、登場人物の心や性格までも表しているようです。メリーベルの巻き毛はふわふわと柔らかく儚げで、鋭い光を放つエドガーの目には背筋が凍るような冷たさが感じられて……。
 完成作として発表される時には綺麗に整えられ、消えてしまう幾つもの線は、萩尾先生の感情や思いの痕跡です。絵と共に、たくさんのセリフや文章も添えられ、物語の構成、キャラクターの生い立ちや心理状態、それぞれの果たす役割、隠された過去、複雑な人間関係などが描き込まれています。
 たとえば、「ポーの一族」パートの冒頭に掲げられた一ページには、次のようなテキストがありました。
「同日、アランはおじから、娘との婚約をせまられ、論争になり、エキサイトしたおじは二階から階段をふみはずす。家中、騒然となり、たおれたおじにかけよった母がくちばしることばを聞いて、(母はおじを愛していた)三階の一部屋にとじこもったところに、窓からエドガーが現われる。さしだすエドガーの手を、アランはうける」。
 これは、「ポーの一族」のクライマックスとも言える大変重要なシーンの記述です。完成作では、9ページにわたって描かれています。表情豊かなキャラクターたち、大きな屋敷の重厚な階段、天蓋付きの豪奢なベッド、窓から吹き込む風で揺れるカーテン……。エドガーが差し出した手に、アランが自分の手を重ね、2人が共に姿を消す場面は、きっと、読者の皆さんの記憶にも強く残っていることでしょう。
 さらに「時代をへて、オーストリアに近い西ドイツの高等中学に、二人転入生が現われる。エドガーとアランである」との記述も。完成作では最後の1ページにあたり、「小鳥の巣」につながる意味深なラストシーンになっています。つまり、これらのテキストを読むと、最初から、作品化する時のイメージは全て出来上がっており、「ポー」の物語の多様な展開も既に考えておられたことがわかるのです。
 こうしてスケッチブックをじっくり眺め、読み込んでいくと、あのシーンには、こんな思いが込められていたのか、このキャラクターにはそんな側面があったのかと、次々に新しい発見があって、まるで宝探しのようなワクワク感を覚えました。
 さらに、彩色されたイラストもいくつか収録されており、本書の魅力のひとつとなっています。同系色を丁寧に配置して描かれた作品の美しいこと! いっぽう反対色を巧みに使った作品では、コントラストは強いのに空気感に満ち、とても柔らかく感じられます。こうした色使いからも、先生の優しいお人柄が伝わってくるようです。
 冒頭に記した大学の講演会では、その時々の対話の流れに沿ってお話をしてくださるのですが、会話の途中で時々、記憶を確かめておられることがわかります。萩尾先生の頭の中では、作品を描かれた当時のことがカテゴリー毎に記憶の引き出しの中に丁寧に整理されているようです。そのため、遠い過去のことも鮮明に蘇らせて、分析しながらお話し頂くことができるのではないでしょうか。
 以前、「ポーの一族」が40年の時を経て復活した時には、「エドガーとアランが、『僕たちずっと待っていたんだよ』って話しかけてくれました」とおっしゃっていました。このスケッチ画集を眺めていて、萩尾先生の“引き出し”の中に残されていた「ポー」にまつわる記憶の手掛かりと、エドガーとアランが語りかけてきたという感覚が、私にも少しだけ摑めたような気がしました。
 長い間本棚で眠っていたスケッチブックを公開されるということは、いわば、創作の裏側をさらけ出すようなものだと思います。本書には、先生の“覚悟”が感じられます。おそらく、未来を作る若いクリエーターへのエールの意味もあるのではないでしょうか。小さい頃から漫画家を目指され、これまでに、およそ210タイトル以上、2万ページに迫る作品を描いてこられた萩尾先生の創造の世界を、さらに深く探検したくなる本です。

(うちやま・ひろこ 女子美術大学研究所特命教授)

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