書評
2025年12月号掲載
『池上彰が話す前に考えていること』刊行記念特集
すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる
池上 彰『池上彰が話す前に考えていること』
対象書籍名:『池上彰が話す前に考えていること』
対象著者:池上 彰
対象書籍ISBN:978-4-10-476202-6
池上彰氏は、今や絶滅危惧種のような正統派ジャーナリストだ。これまでにも池上氏は取材法や思考法について多数の作品を発表しているが、本書は旧約聖書の箴言(教訓となる短い言葉)の形態を取っている。どこから読んでも役に立つ実用性の高い1冊だ。
池上氏は、取材の大原則についてこう述べる。〈新聞記事には「性格」があり、大まかに2つのパターンに分けられます。/1.事実を報じるもの/2.意見、推測、見通しを述べるもの/私たち読み手に求められるのは、「どこまでが事実で、どこから先が意見や推測なのか」を峻別する力でしょう〉。
いまやこういう区別をした上で記事を書くジャーナリストは少数派だ。そんな正論はもはや現下のジャーナリズムには通用しない。もっとも私が親しくしているのは、池上氏に加え、船橋洋一氏(元朝日新聞社主筆)、手嶋龍一氏(元NHKワシントン支局長)、西村陽一氏(元朝日新聞社常務取締役)など、伝統的取材方法を重視する絶滅危惧種のジャーナリストばかりだ。日本のジャーナリズムの文化が顕著に変化したのは、2022年2月24日に勃発したロシア・ウクライナ戦争によるところが大きい。その後、日本のマスメディアも大多数の有識者も、物事を分析し評価するにあたっては、事実、当事者の認識、評価を分けて行わなければならないという基本を忘れてしまったようだ。これが、ガザ紛争によって一層加速した。2023年10月7日にハマスがイスラエルに対してテロ攻撃を行った当初1カ月くらいは、イスラエルに同情し、ハマスのテロ行為を断罪する報道が主流だった。日本の国際政治学者も「日米同盟は日本の生命線だ。イスラエルはアメリカにとって事実上の最重要同盟国である。故に日本はイスラエルを支持すべきである」という単純な三段論法で、イスラエル支持の論陣を張った。しかし、イスラエルのハマス掃討作戦が長期化すると、人道的見地からマスメディアはイスラエルを激しく非難するようになった。そして、三段論法でイスラエルを擁護していた有識者は沈黙し、イスラエル国家の存在を認めない中東研究者や、人権論者が幅を利かせるようになった。ジャーナリストから、「佐藤さんは不思議な立ち位置ですね。親ロ派の人は、通常、親パレスチナなのですが、佐藤さんは親イスラエルですね」と尋ねられるようになった。筆者は、事実、当事者の認識をそれぞれ紹介し、その上で自らの評価をしているに過ぎないが、そのことがなかなか理解されない。ロシア・ウクライナ戦争勃発から3年半経った現在、日本の言論空間は正邪の判定をまず行い、そこから断片的事実を拾い上げて議論を展開するという状況になってしまった。しかも正邪の判定に際してはインターネットが無視できない影響を与える。インターネットが情報空間と人間の認知を歪めている。池上氏は本書においても「エコーチェンバーの外に出る」「知識はインスタント麵じゃない」「ネットは『たこつぼ』化する」など、インターネットが真実を知る妨げとなる要素につき警鐘を鳴らしている。
こういう病的状況を読者に自覚させ、国民の真実を知る権利に奉仕する方向へとメディアを回帰させようとする闘いに、本書を通じて池上氏が挑んでいると私は見ている。ロシア・ウクライナ戦争やガザ紛争についても、機微に触れる情報を入手したときは、私は常に池上氏と共有している。冷酷なリアリストの私と比較して、池上氏はヒューマニストだ。ロシアによって侵攻されたウクライナの人々、イスラエルのハマス掃討作戦で犠牲になっている無辜のパレスチナ人に対する共感と連帯の気持ちを常に抱きながら報道している。ただし、事実、当事者の認識、評価を区別し、報道するという原則を絶対に外さない。だからウクライナやハマスのプロパガンダ(宣伝)に池上氏が利用されることはないのだ。
池上氏が、水準の高い報道を続けられるのは、同氏の根底に教養主義があるからだ。〈読書体験は、実生活にすぐ役立つものばかりではありません。むしろ、すぐには役に立たないことのほうが多い。しかし、かつて慶應義塾の塾長だった小泉信三がいったように「すぐ役に立つことは、すぐ役に立たなくなる」。/漢方薬のように、じわじわ効いてくるのが基礎知識であり、教養なのでしょう。/一見仕事には結びつきそうになくても、長い目でみれば心の栄養になったり、自分の世界を広げてくれたりする本もあります。そういう本が回り回って仕事にも生きてくるのを、とくにフリーになってからはひしひしと感じています〉。マスメディアと大多数の有識者が、事実よりも感情を重視し、恣意的感想を分析や論評と思い込んでいる時代に、池上氏が説くように地道な読書と思索によって教養を身体化していくことが真実に近づく早道と思う。
(さとう・まさる 作家/元外務省主任分析官)




