書評
2025年12月号掲載
今月の新潮文庫
俳句を物語に落とし込むという妙技
宮部みゆき『新しい花が咲く─ぼんぼん彩句─』
対象書籍名:『新しい花が咲く─ぼんぼん彩句─』
対象著者:宮部みゆき
対象書籍ISBN:978-4-10-137281-5
俳句は、“切り取り”だと思っている。風景や心情の瞬間、瞬間を、最適な言葉で切り取ったものだ、と。俳句が奥深いのは、切り取っているのは瞬間であり、個人的なものであるのに、俳句として成立してしまうと、瞬間は永遠に、そして普遍的なものになることだ。
芭蕉の「五月雨を集めて早し最上川」なんて、芭蕉が見た最上川は遥か遠い過去にあるというのに、五月雨で増水し、逬るように荒々しく流れるその姿は、今を生きる私たちの脳裏にくっきりと浮かび続ける。俳句って、切れ味のいいナイフみたいだな。
本書は、俳句をもとに描かれた短編集だ。十二人が切り取った瞬間を、物語にどう落とし込んでいるのか。物語を句にどう絡ませるのか。その句からどこまで離れてみせるのか。面白そうな試みであると同時に、手強そうでもある。とはいえ、その試みに挑戦しているのは宮部さんですからね。面白くないわけがない。
十二編のどれもがいいのだけど、なかでも私の推しは、「鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす」と「山降りる旅駅ごとに花ひらき」「薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ」の三句。
「鋏利し庭の鶏頭刎ね尽くす」。この句、なにやら物騒じゃないですか。(恐らくは)庭を埋め尽くしている真っ赤な鶏頭を、すぱりすぱりと切れ味鋭い鋏で落としていく。切るではなく、刎ねるというのは、鶏頭の「頭」に合わせたものだろう。ギロチンか!
この句に合わせた宮部さんの物語がまた、切れ味が鋭いのなんの、って。高一の六月に、交通事故で亡くなった幼馴染を忘れられずにいる男。そんな男に嫁いでしまった女性が、真ん中にいる物語なんですが、これ、その男だけじゃなくて、母親も妹もとっちらかってるんですよ。とはいえ、一人息子も授かったし、いつかは男の目が覚めるかと耐えていた彼女の堪忍袋の尾が切れたその理由とは。なんというか、男とその家族の静かな狂気にぞわぞわするし、同時に、耐え忍んできた彼女が、遂に男とその一家を見限るその瞬間に胸がすく。
「山降りる旅駅ごとに花ひらき」。これ、宮部さんの物語巧者ぶりが、たっぷりと味わえる一編。物語は、主人公の須田春恵が母親からの手紙を受け取るところから始まる。手紙の宛名が「春江」と書き間違えられていて、もう、そこから読み手は捕まえられてしまう。だって、仮にも自分の子の名前ですよ。それを間違うなんて、もしや春恵の母親には、軽い認知症でもあるのか、と思ってしまうじゃないですか。でもね、違うんです。母親、頭も身体もしゃんとしてる。ただ、その心が捻くれまくっているんですよ。
母親似の姉と妹に挟まれ「パッとしない次女として育った」春恵は、就職をして自立するまで、家族の中で孤立していた。孤立させたのは、母親と妹だ。母親は春恵にだけ辛く当たり、そんな母親を見て、妹は春恵を見下した。姉だけは春恵の味方だったけれど、そんなの、焼け石に水みたいなものだった。
それでも春恵、曲がらなかったんですよ。「子供は親を選べないし、親にも好き嫌いというものがある」。嫌われた子供は不運だけど、「その不運を『不幸』にまで煮詰めてしまうかどうかは、本人次第である」「春恵は子供ながらにそれに気づいて、自分を救う道を見つけた」。
春恵のような、気丈で真っ当なキャラは、宮部さんの他の作品にも見受けられるものだ。そして、そういうキャラがちゃんと報われるようになっている、というのも宮部さん作品に共通の美点。こんなに短い物語なのに、「ザ・宮部印」とでも呼びたい一編だ。
「薔薇落つる丑三つの刻誰ぞいぬ」。この短編もまた、宮部さんのエッセンスがぎゅううっと詰まっている。宮部さんが描く物語──時代ものであれ現代ものであれ──に通底しているのは、死んだ人間(の霊や怨念)より、本当に怖くて恐ろしいのは、生きている人間の心だ、ということだと私は思っているのだけど、この短編にもそのことが強く脈打っている。DV彼氏に毅然と対した主人公が、そのクソ彼氏と彼のクソ仲間から、殴るわ蹴るわの暴力をふるわれ、心霊スポットとして有名な廃病院に置き去りにされてしまう。その主人公を助けるのが、その病院にいる(いる?)人ならざる存在、というのが大筋で、この、人ならざる存在の“彼女”がね、いいのだ、実に。胸がきゅっとなるラストも最高。
俳句好きな方にも、そうでない方にも、そしてもちろん宮部さんファンにも、たまらない一冊である。
(よしだ・のぶこ 書評家)




