書評

2026年1月号掲載

丸谷才一『今は何時ですか?』刊行記念特集

音楽は鳴り止まない

丸谷才一『今は何時ですか?』

平松洋子

対象書籍名:『今は何時ですか?』
対象著者:丸谷才一
対象書籍ISBN:978-4-10-320610-1

 舞台袖から登場した老練な指揮者が、確信に満ちた足取りで中央へ進む。黒い燕尾服。手にタクト。指揮台に上がってオーケストラの団員を見回し、数秒間の緊迫。タクトがしゅっと振り上がる。さあ始まる──
 丸谷才一の小説、とりわけ中・短編を読み始めるとき、かならずこんな光景が浮かぶ。いましも第一音が奏でられる瞬間に全集中する、あの感じに似ている。
 表題作『今は何時ですか?』の幕開けは、この一行。
「天正九年九月九日は九が三つ並ぶ」
 数字の羅列に攪乱され、ええと天正九年っていつ?(調べてみたら1581年) さらに『御湯殿の上の日記』『多聞院日記』『時慶卿記』など往時の日記の題名が畳みかけられて戸惑うのだが、ほどなく、この冒頭のくだりは三年前に直木賞を受賞した作家、浜谷百合子の長編小説『お国とお菊』へ続くものだと明かされる。
 仕掛けの宝庫のような小説だ。浜谷百合子は執筆依頼が度重なる多忙な作家だけれど、自身の作品がどんな評価を受けているのか、覚束ない感情を抱いている。そこへ記念事業を手掛けるプロデューサー、進藤南が現れてふたりは男女の仲になるのだが、この男がやたら批評上手。百合子の新作短編『わいわい天王』を褒めそやしたり的確に分析したり(もちろん『わいわい天王』の一部も登場)、小説家になるのを断念した少年時代の記憶や身の上話が語られたりもするのだが、知り合って五年目、進藤は失踪。その十二年後、行方不明のままの男と週刊誌記事の殺人事件と百合子の新聞小説『明治女賊伝』が絡まり合って……。
 小説内小説や種々の物語をあちこちに配置する巧緻な展開。言葉はひと粒ずつ彫琢された小石のように並べられて淀みなく、優雅な流れ。百合子がかつての恋人への供養として書こうと思いつく短編のなかのエピグラフにしても、なるほど、と膝を叩かせるあざとさも仕掛けのひとつだ。エピグラフとして置かれたその笑い話のオチは「時間とは何ですか?」。つまり読者は〈小説は、時間というものをどのように扱い得るのか〉、作者の手つきを目の当たりにしているのだと、中途ではっきり認識させられる。
 登場人物たちが時間の流れ(それこそ天正九年から現在まで!)のなかでゆらゆらと意識を揺らすことによって物語は進んでいくのだが、時間や意識に介入するのが「批評」という装置である。作家の百合子にしても、エピグラフを挟んで後半に登場する六十一歳の元経済企画庁長官、星川路代にしても、他者の意識の産物としての「批評」に揺さぶられるたび、いやおうなしに感情が刺激され、意識に変化がもたらされる。路代は、弟の喬志について、長年の付き合いのある経済記者に「エンジェリックな感じ」と評されて気をよくしていたのに、弟の死後、じつは違う意味だったと知って臍をかみ、喬志への思慕を募らせる。
「あたしが惹かれてゐたのは彼にあるそんなまるで死者の仲間であることを薄い薄い水わりにしたやうな気配だつたのかしら」
 しかも、室内楽を聴きに行った紀尾井ホールで、すぐ後方の席の男ふたりが亡き弟について喋る噂話を偶然聞いてしまい、路代の意識はさらに先へ促されてゆく。
 不意に他者の意識が差し挟まれることによって揺れ動く自我が、時間の流れにのせながら描かれる。自己と外界とのせめぎ合いを「批評」という行為に担わせたのは、それこそ、みずから書評を手掛け、批評や評価から逃れ得ない作家ならではの着想だったのかしら、などと探りを入れるのも読書の愉しみ。
 終盤、予期せぬ時間の流れが待ち受けている。プルーストに繫がる甘美な連なりに酔わされ、ああまたしても丸谷才一の術中に嵌ったと思う。
 そのほかに三編の短編。「墨いろの月」は、翻訳者の男が回想に取り憑かれ、みずから苛まれてゆく話。「おしやべりな幽霊」は、戦場でのあからさまな出来事が掘り返される話。そして「茶色い戦争ありました」は、丸谷才一が八十七歳で亡くなったのちに発見された遺稿である。戦争を主題として構想された連作短編のうちの一作で、題名は中原中也の詩から取られたものだろう。二人称で始まる新聞売りの少女と学生の小説にも、やはり小説内小説の企みが巡らされている。
 手練れの指揮者は、終生現役のままタクトを振り続けた。音楽は鳴り止まない。

(ひらまつ・ようこ エッセイスト、作家)

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