書評

2026年1月号掲載

丸谷才一『今は何時ですか?』刊行記念特集

喪の語り

丸谷才一『今は何時ですか?』

鈴木結生

対象書籍名:『今は何時ですか?』
対象著者:丸谷才一
対象書籍ISBN:978-4-10-320610-1

 丸谷才一生誕百周年を記念する本書は、長らく単行本未収録であつた短編四作から構成される。個人的に、表題作の明白な影響下で書いたつもりの『携帯遺産』といふ小説を上梓したばかりだつたので、図らずもタイミングが合つた格好。しばらく勝手な感慨に耽つてゐた。
 丸谷は自他共に認めるモダニズムの小説家であり、その作品群は、デビュー長編『エホバの顔を避けて』がエリオットのいはゆる神話的手法を旧約聖書の「ヨナ書」に適応したものだつたことに始まり、ナボコフに絡めた「樹影譚」、ワイルドにまつはるエピソードから発想された「横しぐれ」、ジョイスの『ユリシーズ』の構成に倣ふ『輝く日の宮』と、全体としてモダニズム文学を総浚ひする。さて、本作で俎上に載るのはプルーストだ。
 主人公は作家の浜谷百合子。主人公を作家にするのはモダニズム文学の常套である。ジッドの『贋金つくり』、ジョイスの『若い藝術家の肖像』、それこそプルーストの『失われた時を求めて』も。とはいへ、丸谷の標榜する市民小説への志向は、百合子を時代小説で直木賞を受賞した、いはば「若い藝術家」ならぬ中堅の大衆作家と設定してゐる点によく表れてゐて(蛇足ながら、ここから拙著の主人公を造形した)、本作と老境の純文学作家を主人公とする『樹影譚』を並べれば、その二部構成にしろ、入れ子式の物語にしろ、似てゐるところもやはり多いが、雰囲気はどこか違つてゐるやうな。そしてそれは多分、進藤南といふ本作で新たに導入された男性像による部分が大きい。
 進藤は地方自治体の文化記念事業(それこそ生誕百周年といふやうな)のプロデューサー。その昔、作家にならうとしたことがあつたらしい。が、自分の小説の着想がプルーストそつくりであることに気づききつぱり諦めた。そんな彼の小説評は、批評に飢ゑてゐた百合子を喜ばせる。二人の関係は、本作の前後で書かれた長編の女主人公と恋人たち──『女ざかり』の南弓子と哲学者・豊崎、『輝く日の宮』の杉安佐子と長良(および紫式部と藤原道長)のパターンに属してゐて、さういふ意味で、本作は丸谷文学の転換点に位置するといつていいかもしれない。
 しかし突如、進藤は失踪する。どうやら殺されたらしい。百合子は情人の喪に服すべく物語を書く。それが第二部「今は何時ですか?」、つまり小説の本編に当るものだ。このやうに作品の成立過程そのものを作品化するのもまた大変モダニズム的であり、そもそもモダニズム文学が作家を主人公にしたがるのは、その目的のための手段なのだけれど、ここで注目したいのは百合子が喪のために物語を書く、といふ点。
 本作のタイトルは、ロンドンのロシア人が「今は何時ですか?ホワット・タイム・イズ・イット」と訊かうとしたら、誤つて「時間とは何ですか?ホワット・イズ・タイム」と訊いてしまつた、といふ笑ひ話に由来するが、時に笑ひ話ほど真実を含むものはない。実に「時間とは何か?」といふ問ひこそは丸谷文学の中核なのである。この時間といふ捉へ難いものを描くため、モダニズム文学の先駆者ヘンリー・ジェイムズと泉鏡花は、いづれも幽霊話ゴースト・ストーリーを描いた。過去あるいは伝統を幽霊といふ形で引つ張り出し、その鎮魂のために物語を書く、といふのは、フィクションを書く、といふ本来ひどく不自然な欲求・行為を正当化するための、私小説とはまた違つた方法としても丸谷には魅力的だつたらう。
 このやうに考へると、本書に収録された物語が実は全部過去にまつはる幽霊話ゴースト・ストーリーであることに気づかされる。象徴的なのは、ズバリ日本兵の幽霊が語り手となる第三篇「おしやべりな幽霊」であるが、第四篇「茶色い戦争ありました」では、「君」の幽霊が書きかけの小説を書き上げる。第二篇「墨いろの月」に直接幽霊は登場しないけれど、ここでも過去は追つてくる。とはいへ、本作のラスト、主人公の翻訳家と少年の挿話は何とも涼やかで、そこには未来からの風も吹き渡つてゐる気がした。これは私の最愛の短編「鈍感な青年」も彷彿とさせる。
 丸谷才一の霊が鎮魂を必要とするかどうかは兎も角、本書が広く読まれることは作家に対する何よりの供養となるだらう。そんなことを抜きにしても、単純に素敵な本である。
(ところでわたしもまた百合子に倣つて、故人を偲び、「昔の仮名づかひ」で本文を書いてみた。とはいへ、いつかやつてみたかつた、といふのが本音。何分慣れてゐないから、現代の言葉づかひがまじつてないといいが。)

(すずき・ゆうい 作家)

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