書評
2026年1月号掲載
道を切り拓く女性たちの文壇小説
原田マハ『晴れの日の木馬たち』
対象書籍名:『晴れの日の木馬たち』
対象著者:原田マハ
対象書籍ISBN:978-4-10-331756-2
明治43(1910)年から大正11(1922)年までの「山中すてら」の半生を描くこの小説は、良い意味でのノスタルジックな香りを感じさせる。レトロな感覚といっても良い。
貧しい生まれのすてらは、倉敷の倉敷紡績に勤める十六歳。同年輩の少女たちとの寄宿舎での共同生活は、細井和喜蔵の『女工哀史』に倣えば、“女工情史”と言えるだろうか。もちろん、工女たちの色恋沙汰が中心ではない。厳しい工場労働のなか、寸暇を惜しんで書いた彼女の初めての小説〈回転木馬〉は、同じ部屋の少女たちに完成を祝われ、庶務室主任の小西彌太郎にも認められ、彼女はそんな彌太郎に淡い恋心を抱くのだった。彼女の書いた“作文”は、社長・大原孫三郎の目にも留まる。作中に引用され、紹介された彼女の習作がそれほど優れたものとは感じられないが、明治・大正の文壇に登場した、(当時としては)新しい「小説」の、見事なパスティシュ(文体模写)として味わい深いものがある。同様に作中に登場するすてらの〈回転木馬〉、高橋多嘉子の〈花かんむり〉、三嶋初子の〈赤い薔薇〉など、本当に書かれた小説ならば、当時の読者として一読したいという感じに襲われるのだ。
「山中すてら」という主人公の女性は、小説の登場人物として、もちろん虚構の人物だろう。しかし、この小説の他の登場人物としては、倉敷紡績の社長で、陰日向の両面で「女文士」であるすてらを応援・後援する大原孫三郎は、実在の人物だ(1880~1943)。彼は実業界(紡績業)の大立者で、故郷の倉敷に大原美術館を創設するとともに、大原社会問題研究所を設立し、芸術・文学・社会学などの発展に大きく寄与した、学芸界の重要なパトロンであり、後援者だった。また、黒田清輝などに学んだ西洋画家の児島虎次郎(1881~1929)は、そうした彼に協力し、自らの芸術制作に邁進し、モネやマティスなどのフランスの現代絵画の買い付けと蒐集に勤しむのだった(それらのコレクションは、現在、倉敷のレトロな街並みの一角にある大原美術館に収蔵されている)。
また、夏目漱石、武者小路実篤といった文学者も、山中すてらと同時代の敬愛する作家として、実名のまま登場してくる。端役としてだが、詩人の竹中郁が、本名の竹中育三郎という名前で、そして彼の同級生だった画家の小磯良平が、旧姓の岸上良平という名前で出てくるなど、現実と虚構が、境目を曖昧にして「小説空間」を作り上げるのは、知的な“遊び”として面白く感じられる(竹中も岸上も、芸術に心を向ける若者として希望と可能性に満ちていた)。
明治から大正にかけて、白樺派などの清新な文学・芸術運動が活発化すると同時に、閨秀作家、「女文士」と呼ばれる女性文学者が輩出する。作中に名前の出てくる大塚楠緒子、田村俊子などがそうである。山中すてらが「女書生」として仕える、流行作家の和田イサもそうである。彼女のもとで、山中すてらも女性の小説家として地位を占めてゆく。師であるイサが、男名前で小説を書かねばならなかった(理由は本編をお読みいただきたいが、そもそもそんな時代だったのだ)のと違って、すてらは仏語で星という意味の、その変わった本名のままで、女性作家として成功するのである。
その関係は実在の文学者の関係に比定してみれば、近代文学史上、「青鞜」の平塚雷鳥と田村俊子、「女人芸術」の長谷川時雨と林芙美子、吉屋信子と真杉静枝などの関係が思い浮かぶ。雷鳥、時雨、信子が「姉」の役割だとしたら、俊子や芙美子、静枝などは、その「姉」たちの貞淑さと比べると奔放な「妹」の立場の自由さと自らの行動力を満喫しているように思われる。イサ──山中すてら──三嶋初子という“女系作家”の関係は、この小説が日本近代の“女性文壇”の“もう一つ”の歴史を描いたことを示しているかもしれない(文壇という語も輝いていた!)。その意味で、端正で、貞淑な山中すてらの跡を嗣ぐものとして、母と娘という絶対的な関係から身を振り解こうとして苦悩する三嶋初子の「小説」は、イサや、閨秀作家という名前が最も相応しそうな山中すてらの作品を超えたところで、「女性文学」の道を切り開くものとして期待しても良いのかもしれない(イサも、すてらも和装が似合うのに、初子だけが洋装である──多嘉子もそうだった)。女流三代の文壇小説は、“新しい世代”の女性文学の登場の可能性と期待を持たせたまま、向日的に締めくくられるのである。
閨秀作家、女文士、女流作家、女性作家というように、山中すてらは、文学史のなかで衣装を着替えてゆく。その布地は綿から絹へと変わる。この小説は彼女の文学者としての純絹の「教養小説」である。
(かわむら・みなと 文芸評論家、法政大学国際文化学部名誉教授)


