対談・鼎談
2026年1月号掲載
三島由紀夫生誕100年記念対談
私たちの中に生きている三島
四方田犬彦 × 平野啓一郎
誕生から100年、そしてその衝撃的な最期から55年。10月に『三島由紀夫を見つめて』を刊行された四方田犬彦さんと、23年をかけて『三島由紀夫論』を執筆された平野啓一郎さんによる、節目の年を締めくくる豪華対談をお届けします。
対象書籍名:『三島由紀夫論』
対象著者:平野啓一郎
対象書籍ISBN:978-4-10-426010-2
四方田 最初にひとつ、平野さんには非礼をお詫びしなければいけません。二年前に『三島由紀夫論』を刊行なさった際に、書評なりインタビューなりのご依頼をいただいたのですが、ちょうど今回の新刊『三島由紀夫を見つめて』を構想中でして、著者に聞く前に自分の考えを言ってしまいそうで、ご辞退申し上げたのです。で、遅ればせながらこの本について感想を申し上げますと、正統的な文学研究であると同時に、同業である優れた先輩がどのように小説を構想し、リサーチし、何度も書き直して現在の作品に到達できたかを丹念に辿る、まさに正攻法の作家論だと思いました。ヘンリー・ジェイムズがどのように創作したかを中村真一郎が熱く語ったように、平野さんご自身が、作家が作家を語ることの必然性をお持ちだったわけです。
平野 ありがとうございます。
四方田 そして非常に興味深かったのが、『豊饒の海』に出てくる唯識論のこと。大変難解な概念であり、自分の本の中ではあえて語らないと決めておりましたが、平野さんは三島さんがどんな入門書から勉強を始めて、どのように人から教えを請い、作品を構想したかを緻密に論じています。平野さんが『日蝕』でデビューしたときに、私は『豊饒の海』の松枝清顕みたいな人物が書いたのではないか、ひょっとしたら夭折してしまうんじゃないか、とすら思ったものでしたが、この三島論で、平野さんは松枝清顕のみならず、勉強家の本多繁邦の両方を体現した人物だという印象を持ちましたね。
平野 たいへん畏れ多いお話です。四方田さんのご著書は、前半は四方田さんが折々に書かれた三島についてのお話が続いて、後半はイタリアの映画監督で詩人のピエル・パオロ・パゾリーニと三島との架空の対話が収められています。パゾリーニと三島は、一見するとどう繫がるんだろうと思うのですが、読んでいくと三島由紀夫の思想なり生い立ちなりが、いろいろな観点で相対化されて深まってゆく、非常に効果的な対話になっていて、前半も後半も面白く読みました。ところで僕はいろいろな方の三島体験に関心がありまして、というのも、市ヶ谷の事件を知っている世代の方は、あまり三島に関心のない人も含めて、皆さんその日に自分がどこで何をしていたのかを非常に克明に覚えているんですよ。
四方田 私は高校生で、学校をサボって喫茶店にいたら、ビートルズか何かが流れていた音楽が急にラジオの臨時ニュースに切り替わって、「作家の三島由紀夫が割腹自殺を……」と。いきなり三島由紀夫が、って呼び捨てにされたのがまず驚きでした。それまでの三島さんといえばね、例えば1970年の雑誌「an・an」創刊に寄せて、「女が美しいことは、人生が美しいといふこと」だとか、あるいは映画「からっ風野郎」で若尾文子とラブシーンを演じたあとで、「氷いちごみたいな味覚」がしたとか、さらっと書けちゃう人でした。それがいきなり呼び捨てで、クーデターでも起きたのかと思いましたし、帰宅すると『春の雪』が大好きなうちの母親が、ひたすらオタオタしていたのを憶えています。数日経ってアフタヌーンショーか何かを見ていた母親が、「大変よ! 家にほら、いつもお米持ってくるお兄ちゃん、あの人が出てるわよ」って。確かに米屋の配達に来るニコニコと愛想のいい青年が楯の会の制服を着て、「先生が本当に伝えたかったことは……」とか、すごく真面目な顔で喋っている映像が流れてきたのにも驚きましたね。
『雨月物語』を読み聞かせる三島
平野 僕は1975年に生まれて、ずっと地方都市で育ってきたので、実感がなかったのですが、東京という街で三島由紀夫について語ることには、独特の難しさがあったのではないでしょうか? 事件の現場があり、関係者もいて、政治犯問題もある。僕が1998年にデビューした頃の文壇でさえ、もう済んだことにしたがっていて、「いまさらなんで三島なんだ?」といった非常に強い反発を感じました。
四方田 私は大学で佐伯彰一先生のゼミに出ていたんですよ。『評伝 三島由紀夫』を1978年に書いた方です。でも当時はゼミでも授業でも三島という名前は一度も口にされず、こちらが三島さんの話をしたいと思ってもなんとなくかわされちゃう。私の知っている人では村松剛さんぐらいじゃないかな。堂々と三島さんについて語っていたのは。
平野 逆に言うと、文壇の中や編集者にも、実は三島ファンという人たちが根強くいて、長年の抑圧のあとに僕が出てきたからなのか、非常に良くしていただいたんですよね。あと、ドナルド・キーンさんや横尾忠則さん、美輪明宏さん、高橋睦郎さん。皆さん本当にいい思い出として、生き生きと三島の話をなさる。彼らの肉声を通じて感じたその人間的な魅力は、三島由紀夫の思想を理解していく上で、大きな影響を受けたと思います。
四方田 平野さんの三島論である種の敬意を感じるのは、自決したことをまず前提にして書き始めていない構成なんですよ。私の専門で言うと、パゾリーニの本はイタリア語でもフランス語でも英語でも、必ず彼が惨殺された事件から書き始めて、その死が全てを語っているという、わかったようなことを論じる本ばかり。でもこれは芸術家に対して無礼ですよ。芸術家は芸術作品できちんと見なきゃいけない。平野さんの三島論はそういう姿勢が一貫していて、他のステレオタイプな本とは遠く離れた位置にあると感じました。
平野 四方田さんのご著書でも、そこが強調されていて、死から遡って全部それに結びつけるような読み方はできない、と書かれており、共感しました。生前の三島と接してきた人たちの印象から考えたことのひとつとして、彼は最期まで、殺人を肯定する思想を持ち得なかったのではないかと思うのです。小説では暗殺を描きながら、楯の会はそっちの方向に行きませんでした。
四方田 芸術家というものは、自分の中にあるデーモンを作品にして解放する面がありまして、三島さんは若い頃、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」という題の短編で「今日は乞食を百二十六人殺した」とか、平気でそういうことをバンバン書いちゃっている。それで暴力的衝動から自由になることを先天的に知っていたふしがありますが、彼自身は軍国主義が大嫌いな人間なのです。1945年8月の終戦直前まで、神奈川県の高座海軍工廠にいて、台湾から徴用されてきた少年工達に、休み時間になると、「君たちね、『雨月物語』って知ってるかい?」という調子で話を聞かせていたぐらいでね。この話は台湾の人気作家、呉明益の『眠りの航路』という作品でも描かれていて、当時の三島さんが戦争とか暴力を嫌って少年にお化けの話を聞かせて心を慰めていたと敬意を持って語られているのです。あるいは台湾の日本映画研究の第一人者、張昌彦さんは若い頃早稲田に留学して、たまたま銀座の服部時計店の前を奥さんと歩く三島さんを見つけて、「僕は『金閣寺』読みました!」と声をかけたらしいんですね。すると三島さんは喜んで「そうか、君は台湾から来たんだ。もっともっと勉強してくれよ」と彼の肩を抱いて言ったそうです。だから私は思うんですね。もし三島さんが今も生きていらして、例えば私や平野さんが「いや、この作品はこうじゃないですか」と尋ねたら、「わっはっは! そうかね」と気さくに話してくれたんじゃないのかと。
平野 そういう雰囲気は確かにありますね。もし三島があの時に死ななければという仮定は、大江健三郎さんや松浦寿輝さんなど様々な作家のインスピレーションを刺激してきましたが、今回の四方田さんの本も、そのバリエーションのひとつではないかと思います。
オモチャの兵隊が許された日本
四方田 おそらく三島さんはね、昭和天皇を軽蔑していましたよ。彼は全集で十数巻分のエッセイを書きましたけど、昭和天皇の出てくるのは一度しかないんです。1964年10月、東京オリンピック観戦記で開会式の様子を二行ほど触れただけ。では歴代のほかの天皇はどうかというと、日本武尊の父親の景行天皇が小説に出てくる程度で、後鳥羽天皇も後白河天皇も一切出てこない。では三島さんが言う文化的天皇とは、一体誰を理想としているのかというと、やっぱりよくわからない。というか、そういう関心はなかったんだと思います。
平野 僕もフランスで三島についての講演をした時に、サムライ・スピリットとは、江戸幕府までの政治体制のものだから、明治維新によって打ち立てられた天皇制を掲げながらサムライ・スピリットを強調するのは、王党派だけどナポレオン主義者と主張しているような矛盾を感じると質問されました。考えてみれば確かにそうなんですけど、日本では全く発せられない問いで、結局三島が抱いた天皇を守るサムライのイメージは、明治維新の頃の尊王攘夷派の侍なんですよね。三島は正規軍ではなく、非正規軍の反乱に共感を寄せていて、正規に憧れつつも非正規の純粋さだけで蜂起し、最初から敗北が宿命付けられているような人たちに、また更に魅せられています。
四方田 だから三島さんは、「革命」という言葉が好きじゃなくて、「反乱」が好きなんです。革命は権力を強奪しちゃうと権力側に回って、いずれは堕落するけれど、反乱は必ず鎮圧され、死んでしまうかもしれない。負けると分かっていても、やむにやまれぬ情動に駆られる、それが好きなんだってことを三島さんは言っています。新左翼の学生運動に期待し、東大全共闘で駒場に出向いたのも同じ理由です。
平野 市ヶ谷での決起の時も、自衛隊員が賛同して「一緒にやりましょう!」となることを、最初からまったく考えてない。しかし、その上で死ぬために行動する。なぜなら、死という行為は、今の世の中だけじゃなくて、天皇の絶対性に対する批評にもなり得るんじゃないかと言うんですね。
四方田 結局三島さんは、市ヶ谷での事件によって、昭和という年号を終わりにしたかったと思うんですよ。私が考えるに、天皇制の支配とは空間の支配ではありません。年号を使って時間を支配することが天皇制の中心なのです。だから三島さんにすれば昭和は二十年で終わったはずが、ずーっと折れた形で続いている。これをなんとかしたい気持ちがあったんではないでしょうか。そのせいか、昭和四十五年の事件後は、昭和五十年代とか昭和六十年代とは言わなくなりましたけどね。
平野 今でも役所に行くと、元号で書類を書かなきゃいけませんけど、今年は令和何年だっけ? と永遠に思い出せないこと自体が、元号というものの根本的な機能不全を示しています。
四方田 でも考えてみれば、1970年の段階で、東アジアで軍事独裁制でない国は日本だけでした。中国は毛沢東万歳ですし、ミャンマーもラオスも。ベトナム、カンボジアはめちゃくちゃですし、インドネシアも韓国も軍事独裁政権です。そんな国でオモチャの兵隊が軍服を着て、一民間人があんなことを言うだけでもう処刑ですよ。ですから、日本は三島さんが批判した戦後民主主義が成立した国だったからこそ、楯の会が可能だったわけです。
本物ではないがゆえの過剰適応
平野 三島文学の特徴のひとつとして、過剰適応という面があると思うんです。『春の雪』の松枝清顕は綾倉家に預けられ、綾倉聡子が体現している本物の「みやび」に憧れて、いわばコピーであるがゆえに過激化して、聡子が戸惑うほどの「みやび」の体現者になろうとする。本物以上に本物らしくならなければいけないという衝動に突き動かされるわけですね。勲の「純粋さ」への過剰さもそうです。三島自身は、日本の古典文学の継承者であるという強い自負があって、確かに類いまれな才能で文学の伝統を受け継いでいるとは思うんですけど、例えば漢文では先人に遠く及ばないものがあります。過剰に「日本」を背負いすぎてしまった面もある。
四方田 本物らしさで言えば、三島さんの平岡家はね、元々は播州の農民の家柄で、お祖父さんが帝大を出て樺太庁長官まで出世して、お父さんも高級官僚という一家ですが、彼らは華族ではなくあくまで平民です。学習院初等科には五十人のうち三人とか四人とか、ものすごく勉強のできる子を入れて、華族の子どもたちに刺激を与えるわけですね。平岡少年はものすごく勉強ができたし、詩を書いていることが学校で話題になるような人物でした。ただ、よく彼は貴族趣味と言われますけれど、太宰治を含め、華族に対しては大変批判的でした。つまりここでも、社会体制の変化によって、平民の子が試験に合格すれば学習院初等科に入れる社会になったという事実があるわけです。貴族趣味と言われるけれど、貴族ではないこと。軍国主義と言われるけれど、軍事独裁の国では成し得なかったパフォーマンスで最期を遂げたこと。この二つは大変重要なことだと思います。
平野 そのあたりの、コピーか本物かというテーマは、二十世紀にさんざん議論された非常に大きなテーマですけれど、三島の中にもやはり、偽物と本物という意識が強くありましたね。
四方田 非常に大雑把なことを言いますけれど、十九世紀までの小説は、きちんと成功した本物を作品として提出するのが前提でした。でも二十世紀になると、それが途中で破綻して失敗作になることがあっても、我々はその失敗具合も含めてきちんと読むようになる。横光利一の『旅愁』にしても、中上健次の『異族』、埴谷雄高の『死霊』にしても、失敗作と簡単に言うわけにはいきません。成功作とはいえなくとも、どこかで本来の想定ではない形で終わってしまった小説と言えるのですけれど、三島さんの最晩年は、さらにそれとも違っています。あらかじめ失敗する、挫折するということを充分に認識しながら、あえてその挫折を作品として提出する。失敗すること自体を作品化しようと試みたのじゃないかと思ってしまいます。例えば『天人五衰』の冒頭は「沖の霞が遠い船の姿を幽玄に見せる」と、いきなり「幽玄」という言葉から始めちゃいます。風景か何かをみんなで見て、ああ、これが幽玄というものかと、じわじわって分かってくるものが幽玄であって、これではキッチュ、銭湯のペンキ絵みたいなものです。でも三島さんは意図的にこれをやったと思うんですよね。
平野 彼の辞世の歌も、やはりそういうところがあったと思うのです。武の人間として死ぬ以上は、華麗な修飾が施された句は詠まない。あれはわざと下手にした句じゃないかなという気がしますね。
四方田 おそらくそうでしょう。あえてステレオタイプなことをやる。定型を繰り返すことによる力を、彼は知っていたんじゃないかと思うんですね。
平野 『天人五衰』が、かなり意図的なものだったと理解するとして、もし三島が生き残って、例えば古井由吉さんみたいに老衰自体をテーマにした小説を書いていたら……やっぱりそんな小説は想像できない感じがしますけれど、どうなんでしょうかね。
2025年11月28日 六本木 蔦屋書店にて開催の対談内容を一部収録しました。
(よもた・いぬひこ)
(ひらの・けいいちろう)



