書評

2026年1月号掲載

特別エッセイ

向田邦子さんのこと──『トットあした』より

黒柳徹子

ふたりで笑い合った、宝石のような時間も思い出していきたい──

対象書籍名:『トットあした』
対象著者:黒柳徹子
対象書籍ISBN:978-4-10-355008-2

 また、私の食いしん坊の話になるけど、私の食欲などについては、お医者さまに不思議がられることがあった。
 その方は小森昭宏先生といって、脳外科医であると同時に、童謡「げんこつやまのたぬきさん」「おべんとうばこのうた」などで知られる作曲家でもあった。NHKテレビの人形劇「ブーフーウー」(「夢であいましょう」や「若い季節」と同じころの番組で、私は三匹の子ぶたの末っ子、ウーの声をやっていた。台本は飯沢匡先生)も、小森先生の音楽だ。
 それに加えて、小森先生のお父さまは新交響楽団(いまのNHK交響楽団の前身)のティンパニ奏者で、同じオーケストラのヴァイオリニストでコンサートマスターだった私の父と長い交流があった、という縁もあって、私たちはよく一緒にお食事に行っていた。
 その席で、小森先生に不思議がられたのは、私のあまりの食べっぷりで、
「おかしいな。これだけ食べるひとは、普通は百貫デブ(百貫というのは三七五キロくらいだそうだけど、肥満したひとをからかう、そんな言い方があった)になるんだけどなあ」
 と、あきれるように言った。
 病院の人間ドックでは、お医者さまから、「どうやら、他のひとの何倍か消化が早いみたいです」と言われたこともある。確かに、昼に盛岡でわんこそばを百杯いただいたあと、東京へ帰って、フルコースをおいしく平らげても、全然平気だった。
 消化が早いせいか、食いしん坊のせいか、私は食べるのが早いらしくて、例えば、日本料理屋さんのお座敷でやった対談の席で、私がお食事を出されるままにいただいて、デザートのメロンをおいしく食べているのに、お相手の山川静夫さん(NHKアナウンサーだった)はまだ、つき出しを食べていたので、山川さんをビックリさせたことがあった。
 なにしろ、山川さんのつき出しの横には、お刺身や、お吸い物、焼き魚、お野菜の煮もの、酢のもの、てんぷら、茶そば、と、私はもういただいたけど、山川さんの方はまだ手つかずのお皿やお椀が一メートル半くらい並んでいて、そのおしまいにメロンが置かれていた。
 これは別に、対談のあいだ、私がずっと黙っていて、食べるのに集中していたわけではない。対談を撮影していたカメラマンの男性は、「そう言えば、黒柳さんが召し上がっているところ、見ませんでしたよ」と首をかしげていたし、山川さんは、あとで対談が載った雑誌を見て、「黒柳さんの方が、たくさんしゃべっている!」と驚いていらした。
 コラムニストの山本夏彦さんとの対談の時は、お料理を運ぶおねえさんが、私がすぐお皿を空っぽにするものだから、次から次に運ばなくてはいけないと、あせって畳の上ですべってしまい、お盆を持ったまま、きれいにステンと転んだこともあった。これには私も申し訳なく思って、以来、できるだけ、ゆっくり食べるように意識はしているのだけど、ついつい早く食べてしまう。
 そんなふうに、ものすごく早く食べるおかげなのかどうか、私は、食べる量のわりには、確かに、あまり太らない体質みたいだった。
 向田邦子さんが亡くなる少し前に、彼女のおすすめの中華料理屋さんに一緒に行ったときも、テーブルに座るなり、「太らないわね」と言われた。知り合って十五年くらいになっていたけど、向田さんの体形も変わったように見えなかったので、
「あなたも変わらないじゃない」
 と言うと、向田さんは笑って、
「私、氷囊みたいなの!」
 と言った。
 ひょうのう、は袋の上のほうでくくってあって、下に行くにしたがって、中に入れた氷水で、でっぷりと、ふくらんでいく。
 顔が小さい向田さんが、自分の体形を愉快にたとえた表現だった。

 向田さんは、おいしい店をたくさん知っていて、よく一緒に食べに出かけた。だけど、あらためて考えてみたら、どこかのお店に行くよりも、向田さんのお部屋で、ふるまわれた手料理をおいしくいただいた回数のほうが、はるかに多いに違いない。
「寺内貫太郎一家」「時間ですよ」など、数々の向田ドラマをつくった久世光彦さんは、『触れもせで 向田邦子との二十年』という本に(これは、向田さんへの久世さんの思いがたくさん、つまった本だ)、彼女の部屋で「寺内貫太郎一家」の打合せをしたときのことを書いている。
「行きづまると向田さんは台所へ立って薩摩芋のレモン煮とか、顔を顰めるくらい酸っぱい梅干しとかを持ってくる。客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった。肝心な話より、余談、雑談、無駄話の方が多くて能率の悪い部屋ではあったが、静かで楽しい部屋だった」
 ここで久世さんが書いているのは、向田さんの終の棲家になった、南青山のマンションの部屋のことだけど、その前に向田さんが住んでいた、霞町マンションのお部屋も、「客人として訪ねて、あんなに居心地のいい部屋はなかった」ことを私は知っている。居心地が良すぎて、私はほとんど毎日、霞町マンションの「Bの二」号室に入り浸っていたくらいなのだから。
 それは、木造モルタル三階建ての二階の、そんなに大きくない一室だった。玄関を入ってすぐ右手に、向田さんが仕事をしている机があって、私はその脇にあったソファに横になって、向田さんとたわいのないおしゃべりをしたものだった。ソファの向かいに本棚があって、その上にはいつもというシャム猫が乗っかっていた。私が、おなかがへったと言うと、向田さんは、頭にキリリとヘアバンドをして、台所に立ち、チャッチャッと、ごはんをつくってくれた。
 久世さんは「薩摩芋のレモン煮とか、顔を顰めるくらい酸っぱい梅干し」をいただいたそうだけど、私が向田さんの手料理でおぼえているのは(あまりに数多くいただいたせいで、かえって、よくおぼえていないのだけど)、茄子の煮びたしとか、古漬けをきざんで覚弥にしたものとか、長ネギのアツアツ油かけとか、サヤインゲンとおろした生姜を和えたものとか、凝ったところでは、トビウオのでんぶとかを出してもらった。
 どうやら、そんな料理は、向田さんの『父の詫び状』に出て来る、あのお父さまの晩酌の肴のために、手早く、珍しく、おいしいものをと、考案されたものが多かったようだけど、お酒を飲まない私はごはんのおかずとしていただいて、どれもこれも、おいしかった。「スプーン二杯入れたら、あら不思議、たちまちサッポロの名店の味に!」というフレコミの、ご自慢の自家製タレをたらしたインスタント・ラーメンも、おいしくて、そのタレを少し、わけてもらったこともある。
 そして、私が「おいしいわ」と言うと、「そうかしら?」なんて絶対に謙遜しないで、
「案外でしょう?」
 なんて、チラッと自慢げに言うところも、私は好きだった。

 向田さんが杉並の実家を出て、霞町に引越したのは、前の東京オリンピックの開会式の日だったというから1964年10月10日のこと。彼女が三十五歳になる前の月だ。そして霞町から南青山へ引越したのは六年後、1970年暮れだった。
 私が出会った時、向田さんは三十代半ばだった記憶があるから(私は四歳年下)、霞町に引越した翌年あたりのことだと思う。向田さんの書くものによく出演していた加藤治子さんが、私を霞町マンションへ連れていってくれた。
 そもそもの出会いは、赤坂のTBSのスタジオだった(私はまだNHKをやめていなかったけど、他の局の番組に出始めていた)。向田さんの書いた、連続もののラジオドラマに出たはずだけど、犬が出てきたこと以外、内容もタイトルも残念ながら、おぼえていない。
 いま「向田さんの書いた」と書いたけど、正確には、私がスタジオに行ったとき、いつも筆が遅い向田さんのシナリオは、まだ書きあがっていなかった。こういうとき、作家は、お尻に火がついた状態の番組スタッフにせっつかれ、ペンと原稿用紙を持って、現場にやってくることになる。私たちがスタジオで収録を始めたとき、ガラスの向こうで、向田さんは次の回の原稿を必死に書いていた。つまり、私たちは、向田さんの筆が遅かったおかげで、会うことができたのだ。
 ようやくシナリオを書き終えて、ホッとした感じでいる向田さんは、きれいだった。初対面のあいさつをすませた私は、向田さんが髪の毛をきちんとセットされているのを見て、「すごく髪の毛きれい」と言ったら、「どんなときでも頭だけはね。ほかはともかく」と笑った。その言い方や笑い方が、素敵だった。
 確かに向田さんは、化粧水をぬって、濃いめの口紅をチョンとつけておしまい、みたいなさっぱりしたメイクをしていた。服装も、後から思えば「いかにも向田邦子!」という感じの、黒がベースのシンプルなものだったし、声も気持ちのいい、少し低音で、少し早口の、それでいて、やわらかいしゃべり方をした。総じて、落ち着いた、知的なお姉さん、という雰囲気だった。私たちは初対面のときから、どこか通じ合うもの、似通ったものを、お互い感じ合っていたと思う。
(このとき以降も、いつだって、「頭だけはね!」の言葉どおり、向田さんの髪は、本当に、手入れが行き届いていた。人としゃべっているとき、しょっちゅう無造作にかき上げていたから、よく手入れされているとは、あまり、気づかれなかったかもしれないけど、きちんと美容院に通っている髪だった。真ん中から分けた黒い髪を、耳の下できれいに切りそろえた、いつものヘアスタイルは、向田さんの小さな顔と、知的な額と、ときおりキリリと吊り上がる美しい目に、とても似合っていた。)
 その初対面のときか、二度目に会ったときのことだ。とにかく、やはりTBSのスタジオでのことで、書きあがったばかりの向田さんのシナリオを読むと、「禍福はあざなえる縄のごとし、って言うでしょ?」みたいなセリフが出てきた。だいたいの意味はわかっていると思ったけど、念のため、向田さんに尋ねてみた。
 向田さんは、
「人生では、幸せと災いは、かわりばんこに来るの。いいことがあると、必ず、そのすぐ後に、よくないことがあって、でも、その逆もある。つまり、幸福の縄と不幸の縄とを縒ってできているのが人生だ、ということじゃないかしら」
 と答えてくれた。
 根っから楽天的な私が、ほとんど反射的に、
「あら、でも私は、幸せの縄二本で編んでいる人生がいいな。そういうことって、ないの?」
 と質問したら、向田さんは、
「ないの! ないのよ」
 と笑って答えた。
 その後、長いあいだ、このやり取りを、私が深く考えることは、なかった。やがて、はっきり思い出すことになったのは、向田さんが直木賞を受賞した時の、お祝いのパーティ会場でのことだった。私は、向田さんから頼まれて、そのパーティの司会をしていた。
 乾杯の前に、私が「向田さんから、まず、ひとこと」と言うと、向田さんがマイクの前に立って、こう述べた。
「私は長いこと、男運の悪い女だと思い続けてきました。この年で定まる夫も子どももいません。でも、今日、こうやってたくさんの方に、お祝いをして頂きまして、男運が、そう悪い方じゃない、ということが、やっとわかりました。私は欲がなくて、ぼんやりしておりまして、節目節目で、思いがけない方に、めぐり逢って、その方が、私の中に眠っている、ある種のものを引き出してくださったり、肩を叩いてくださらなかったら、いまごろは、ぼんやり猫を抱いて、売れ残っていたと思います。ほかに、とりえはありませんけど、人運だけは、よかったと、本当に感じています。
 それと、今日は10月13日ですが、この日は、私の中に感慨がございます。五年前のいまごろ、私は手術(乳ガン)で酸素テントの中におりました。目を開けると、妹と澤地久枝さんがビニール越しに私を見ていたので、『大丈夫』と言ったつもりが、麻酔でロレツがまわりませんでした。そして、明るく人生を過ごすことができるのか、人さまを笑わすものが書けるのか、どれだけ生きられるかも、自信がありませんでした。頼りない気持ちでした。でも、たくさんの方のあと押しで、賞も頂き、五年ぶりに、いま『大丈夫!』とご報告できるように思えます。そんなわけで、お祝いして頂くことは、私にとって感慨無量です。ありがとうございました」
 ステージの横で、笑ったり、胸を打たれたりしながら、このスピーチを聞いていた私は、十何年ぶりかで、向田さんから聞いた「幸せと災いは、かわりばんこに来るの」という話を思い出していた。そして、(本当に、向田さんが言ったとおりだったわ。なのに、私ったら、幸せの縄二本の人生はないの? なんてバカなことを言ったものね)と司会席で、こっそり、おかしがっていた。
 このパーティから一年も経たないうちに、向田さんは、家族や友だちやファンや猫を残して、卒然と、台湾の空で消えてしまった。
 向田さんの最後の六年間に起きたことは──大きな手術があり、そして「冬の運動会」「家族熱」「阿修羅のごとく」「あ・うん」といったドラマや、「突然あらわれてほとんど名人」と山本夏彦さんに激賞された数々のエッセイの執筆、さらに『思い出トランプ』の短篇小説で直木賞受賞、そして翌年の飛行機事故、だった。
 向田さんが亡くなった1981年には、私がトモエ学園の小林校長先生や、泰明ちゃんをはじめとする仲間たちや、そこでの教育の風景みたいなものを残しておきたくて『窓ぎわのトットちゃん』を書き、思いもかけないほど、たくさんの方々に読んでもらうことができた。それはとても幸せな出来事だったけど、本が出た、わずか五ヶ月後に、最愛の友だちである向田さんを亡くしてしまった。
 いくら楽天的で、呑気者の私でも、「禍福はあざなえる縄のごとし」という言葉が重く、胸に響いてきた。

*   *

 それにしても、毎日毎日、向田さんの霞町マンションに通って、何時間も過ごして、よく、あんなにおしゃべりすることがあったな、といまでも思う。あの時間は、いったい何だったのだろう?
 当時は民放ドラマが最初の盛り上がりを見せていた時期で、私などにも、よく声がかかっていた。私は、渋谷のNHK、六本木のNET(いまのテレビ朝日)、赤坂のTBSでの仕事が多く、各局にまたがってドラマの掛け持ちもしていたので、ちょうど霞町(いまの西麻布あたり)の向田さんのお部屋は真ん中になるから、撮影と撮影の合間などに、ちょこっと遊びに行きやすかった、ということもあると思う。
 もうひとつには、まだ向田さんが、そんなには忙しい時期でなかったこともあるかもしれない。「いま、ちょっと忙しいの」と断られたり、打合せの来客があったりすることが、二、三度続けば、さすがの私も遠慮するようになっただろう。私が訪ねていくと、もちろん仕事をしている時も多かったけど、毛ほどもイヤな顔は見せなかった。
 向田さんが仕事をしている間は、私は自分の出るドラマのセリフをおぼえたり、伽俚伽はシャム猫なんだけど、〈名犬ごっこ〉と称して、紙のボールを投げて、じゃらしたりしていた。私は放っておかれても平気な人間だから、向田さんも気兼ねなく、机に向かっていたのだと思う。
 彼女の仕事が一段落すると、おしゃべりの時間になる。のちに、向田さんが、まだ珍しかった留守番電話を自宅に取りつけた時(これはもう南青山へ引っ越したあと)、一分ずつしか録音できないテープに向かって、私が連続九回、早口で吹き込んだあげく、「じゃあ、用件はじかに会ったときに話すわね」で終えた話をエッセイに書いて、それが有名になったから、ふたりでいるときも、私が一方的に、喋っていたと思われるかもしれないけど、向田さんもおしゃべり好きだった。
 私は、夜は世田谷の実家に帰るので、向田さんちに泊ったりすることはなかった。向田さんが亡くなってから、母に「あなた、本当に向田さんと仲が良かったわね」と言われたことがある。「どうして?」と聞くと、「昼間、向田さんちに寄ってた、って言うでしょ。それが、夜、家に帰ってからも、電話で向田さんとずっと喋ってるんだもの。お仕事が休みの日もよ。よく話すことがあるなあって感心してたの」。
 でも、いったい何を話していたのだろう? 日記をつけていたらよかったと残念なほど、記憶がない。それくらい、他愛もないことを、飽きることなく、来る日も来る日も、喋っていたのだろう。前にも書いたけど、向田さんが三十五、六歳、私は三十歳を過ぎたばかりの頃だった。ボーイフレンドのこととか、そんな年頃の女性同士なら、話題に出てもおかしくないだろうけど、男の人の話になったことは一度もなかった。
 そのころ、霞町マンションの部屋で、私が、ひとつだけ、疑問というか、うらやましく思っていたのは、帽子をかぶった向田さんのとても素敵な写真があったことだ。いまと違って、みんながカメラを持っている時代でもないし、私は写真を撮られる側の仕事をしているわけだけど、芸能人って、良さそうな写真が撮れたなと思っても、「今日の写真、出来上がったらくださいね」と、よほどしつこく頼まないと、意外と自分の写真を頂けないものなのだ。それが、向田さんが、明らかに素人が撮ったものじゃない、すごくきれいな写真を何枚も持っていたので、(いいなあ、どうしたんだろうな)と思って、しかし、わざわざ尋ねることもなく、そのままになっていた。
 そんな疑問が解決したのは、向田さんが亡くなって二十年が過ぎたころ、妹さんの和子さんがお書きになった『向田邦子の恋文』で、年の離れたカメラマンの恋人がいたことを知った時だ。霞町マンションで見た写真の向田さんが、輝くようなうつくしさで、うつっていた理由がわかった。でも、向田さんは一生懸命に尽くしたのだけれど、やがて、病気がちだった恋人は自殺してしまった。そして向田さんは実家を出て、霞町マンションに引っ越したのだ。
 私と出会った頃の向田さんは、人生で少し空白のような時期だったのかもしれないと、『向田邦子の恋文』を読んで、腑に落ちた気がした。だから、少し年下で、外で聞いた面白い話もすれば、黙って猫と遊んでいたりもする、私のような存在が、気楽で、ちょうど良かったのかもしれなかった。
 これは、その当時から、ぼんやりと感じていたことだけど、向田さんは面白い話や噂話が好きで、二人で笑ってばかりいたのに、虚無的は言い過ぎだし、達観したとも少し違うけど、薄く刷毛で刷いたような翳がある人だった。その頃の私は、そんな向田さんの翳を、私にはない大人っぽさ、のように見ていたかもしれない。私よりお姉さんだから、大人っぽく感じても当り前かもしれないけど、和子さんの本でお相手のことを知ると、ずっと失われていたジグソーパズルの一片が見つかったような気もする。自分のことがあったから、私に「誰かいるの?」みたいなことも聞かなかったのだ。
 めずらしく霞町マンションでの会話を思い出したけど、ある年上の俳優さんが、連日やってきて、向田さんに別れ話のグチというか、未練みたいなことを、こぼすのだという。「彼女、ここに来て、毎晩泣くのよ。困っちゃう」と向田さんは言っていたが、それは自分が乗り越えてきたことと較べたら、生きて別れるくらい、大したことないじゃない──と考えていたのかもしれなかった。

 あの飛行機事故があって、向田さんの秘めた一途な恋のことを知ると、どうしても、しんみりしてしまうけど、少しおっちょこちょいなところもあって、明るいことが好きで、人を楽しませることが上手で、よく一緒に笑い合ったことも、折にふれて思い出していきたい。
 ああ見えて、字が下手だった。シナリオのト書きに「少し狼狽して」と書いたのが、ほかのひとには「少し猿股して」としか読めなくて、その役を演じる池内淳子さんに「ここで私が、ちょっと穿くという意味ですか?」と真剣に聞かれたこと。
 まだ生放送の時代に、あるドラマで、女スリが怪しまれないよう、カモフラージュ用の赤ちゃんを抱いていたのだけど、結局、逮捕されて、その赤ちゃんを今度は婦警さんがあやしながら、「早く手紙を持って来て」と言ったから、撮影現場が混乱したこと。向田さんは「牛乳」と書いていたのだ。
 筆が遅いから夜中に原稿を自分で印刷所まで届けて、帰りのタクシーで、運転手さんに「私、やっと仕事が終わったから、帰ったらシャワーを浴びて、ビールを呑んで寝るのよ」とか言って、自宅マンションの前に着いたとき、左手に持った千円札じゃなくて、右手に持った家の鍵の方を運転手さんに渡したのに気づかず、おつりをあげるつもりで、「これ取っておいて」「奥さん、いいのかい」「いいわよ」となって、運転手さんに「本気にするぜ」と言われたこと。
 ついにタクシーで届ける時間もなくなって、印刷所で原稿を書くこともあった。印刷所の小部屋に入れられて、机がガタガタしても、それどころじゃなくて、向田さんは必死で筆を進めた。だんだん原稿用紙があたたかくなってきたけど、それも構わずに書いていたら、印刷所の人が近づいてきて、「あのう」「待ってください。もう少し!」「そこは……」「〆切に間に合わないんです! この場所、お借りします!」「いや、それ、おれたちの夜食なんです」。「私、お弁当の上で原稿書いてたのよ」と笑っていたこと。
 久世光彦さんから珍しく時代劇、それも捕物帳のシナリオを頼まれた向田さんは、例によって、〆切を大幅に過ぎてから、ようやく書き終えて、イライラして待っている久世さんのところへ持っていった。久世さんが見ると、原稿を綴じた表紙に「顎十郎捕物帳」とある。
「こんなに待たせておいて、面白いんだよね?」と問う久世さんに、
「たぶんね。顎って、画数が多いから、書くのに疲れちゃった」
 と笑って、向田さんは帰った。
 久世さんは楽しみに読み始めた──夜な夜な、江戸に妖しい事件が起きる。現場には、かならず、くちなしの花が一輪、残されている。物語はとても謎めいていて、ヒロインは美しく魅力的で、彼女を助ける主人公の顎十郎もカッコよく、江戸情緒もたっぷりだ。久世さんは「いいぞ、いいぞ」と、ワクワクして読み進めたのに、とうとう最後まで、下手人(犯人)がわからないままだった。しばし呆然としたあと、久世さんが慌てて電話して、「下手人が出てこないじゃないか!」と問い詰めたら、向田さんは、自信ありげだった昼間の様子とは打って変わって、とてもしおらしい声で、「そうなのよ。どうしようかしら」と言ったこと。
 私にごちそうしてくれるために、「鯛より断然安くて、断然おいしいのよ」と言って、トビウオのでんぶを、こしらえてくれたとき、トビウオを茹でて、皮から身をとって、骨も小骨もきれいにとって、それを砂糖と味醂とお酒と合わせ、パラパラになるまで丁寧に炒めて、「できたわよ!」と言いながら、骨や皮の方じゃなく、出来上がったばかりのでんぶを勢いよくゴミ箱に放り込んだこと。
 そんなことを思い出していると、無性に会いたくなってたまらなくなる。だけど、会おうにも、電話をかけて、留守番電話に吹き込むことさえできない。
「私が書くものに、徹子さんみたいな人は出て来ないの」と言っていた。確かに、「寺内貫太郎一家」を見ても、「阿修羅のごとく」を見ても、「私のやる役はないな」と思う。出会いのきっかけになったラジオドラマ以外、結局、私は向田さんの書くものには一度も出ないままで終わった。ただ、向田さんは、
「でもね、外国映画に出て来るおばあさんみたいに、あなたにしかできない面白いおばあさん役って、あると思うの。早くおばあさんになってね、私、書きたいから」
 と言っていた。そのあとも何度か、「早く、おばあさんになってよ。あなたがおばあさんになるのを、私は楽しみにしているのよ」と言ってくれた。私もどれだけ楽しみにしていたことか!
 もう、歳をとる楽しみは永遠に失われてしまったけれど、それでも、向田さんは私に、いったい、どんなおばあさんを書いてくれただろう、と考えることだけは、ある。

向田邦子

向田邦子さんの発言など、徹子さんを作った24の言葉で半生を辿った決定版自叙伝『トットあした』は好評発売中。

『トットあした』より、向田邦子さんの章を再録しました。 編集部

(くろやなぎ・てつこ)

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