書評

2026年1月号掲載

今月の新潮文庫

レイシーに幸あれ

ジョン・グリシャム『判事の殺人リスト』(上・下)

田村和大

対象書籍名:『判事の殺人リスト』(上・下)
対象著者:ジョン・グリシャム、白石 朗 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-240943-5/978-4-10-240944-2

 なぜこの主人公にこれほど惹かれるのだろう。
 レイシー・ストールツ。
 フロリダ州司法審査会の職員で、不正を告発された判事を調査する仕事は「法曹界でのキャリアの出発点としてはいい職場だが、真剣にキャリアアップを目指す者にとっては先の見えない袋小路」(以下「 」は本作からの引用)だ。レイシーは十二年にわたり勤務しており、何年も前に辞職していてしかるべきだったと考えている。親友に中年呼ばわりされて怒りを覚える三十九歳の女性で、交際三年目のアリーとは倦怠期、仕事も私生活も将来に悩みを抱えている。そんな彼女を、グリシャムは前作『告発者』(The Whistler, 2016)から五年の時を経て本作『判事の殺人リスト』(The Judge’s List, 2021)で再登板させた。
 グリシャムは三十三年で三十七作(本作刊行の2021年時点。CBS調べ)を書き上げる多作作家でありながら、単発の作品がほとんどで続篇を書くのは珍しい。ジュニア向け小説を除けば、本作刊行時点でレイシーはジェイク(グリシャムのデビュー作『評決のとき』の主人公)以来の長篇作品で二度主人公となった人物だ。グリシャムのレイシーへの惚れ込みようが分かる。
 では、なぜグリシャムはこの主人公にそれほど惚れ込み、私たちも惹かれるのか。
 それは彼女が、キャリアに不安を覚えたり私生活に悩みを抱えたりする平凡な人間でありながら、プレッシャーをかけられればかけられるほど強く反撥する、鋼鉄製のスプリングのような強靭さを秘めているからに違いない。
 前作では敵方の策略によって同僚が殺され、自身も頭部を二十四針縫う重傷を負いながら調査をやり遂げた。その強靭な反撥力は本作でも遺憾なく発揮される。
 前作から三年後、レイシーのもとに持ちこまれた告発は、ある判事が殺人を犯しているというもの。それも一件ではなく連続殺人で、今もまだ殺し続けているという。レイシーは告発者ジェリを疎ましく思いながらも、次第にその主張を信じるようになっていく。
 司法修習生から選抜されて純粋培養される我が国と違い、米国の判事は弁護士などの中から選挙で選ばれる。日本でも弁護士から裁判官になる弁護士任官という道もあるにはあるが、私が弁護士十年目ごろに弁護士会の推薦を得て最高裁で局長級の面接を受けたときは、担当事件に関し新聞で裁判所を批判した過去が問題視され、面接官の一人と口論となって任官希望を取り下げた。不愉快ではあったが、このようにして異物を排除し選良エリート の質を保っているのだと妙に感心した覚えがある。
 制度は違えど米国でも「判事族は公正聡明」と思われているらしく、しかも調査対象の判事は弁護士たちから「礼儀正しく、法律のプロに徹し、機知に富み、思いやりがあり、聡明で、“そら恐ろしくなるほど知的”」という評価を得ている。ウェイトトレーニングに励むなど頑健で、長年の審理経験から鑑識の知識も豊富、更には「一流のアマチュアといえるレベル」のハッキング能力も有している。
 倒叙法よろしく殺人場面が序盤から克明に描かれるが、右のような人物がおいそれと証拠を残すわけもなく、調査は行き詰まるかに見える。そこで発揮されるのがレイシーの強靭な反撥力だ。粘り強い交渉で各地の捜査機関を調査に引きこみ、じわりと包囲網を狭めていくさまは、グリシャムの語りと相まって頁を捲る手が止まらない。
 語りは他の多くの作品と同じく三人称複数視点で、しかも例えば一つの章で犯人→被害者の妻→犯人→警察署長→犯人→警察署長と五回も切り替わる。このような頻繁な視点切替は、ともすれば読者に負担をかけると同時に物語の緊張感を損なうとして、本邦のミステリー小説では忌避される傾向にある。しかし三人称複合多元視点の奥泉光『雪の階』(中公文庫)のように、洗練された視点切替は傑作の一助にもなる。グリシャムの視点を操る技は手練の域にあり、読者に違和感を覚えさせず緊張を高めていく。
 追い詰められた犯人は、自らの名誉を守るために文字どおり命をかけた勝負に出る。ここが本作の最大の見所で、人間という賢しらな生き物の傲慢さを考えさせられる。
 そして事件に一応の決着を見た後、レイシーは人生における重要な選択をする。その選択は、ジェイクや『原告側弁護人』のルーディといった他のグリシャム作品の主人公たちと通底するものがある。
 レイシーに幸あれ、と思わずにいられない。

(たむら・かずひろ 小説家/弁護士)

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