書評
2026年2月号掲載
素材にしにくい人物を小説化する妙味
川越宗一『絢爛の法』
対象書籍名:『絢爛の法』
対象著者:川越宗一
対象書籍ISBN:978-4-10-356511-6
扱いにくい人物をよく立体的に描き切ったものだ、これが本書に接した時の第一印象である。もちろん、井上毅を素材にした作品がこれまでなかったわけではない。
私自身、ちょうど一年前に、ある評伝選の一冊として『井上 毅』を上梓している(ミネルヴァ通信「究」一六八号「自著を語る・語り尽せなかった事ども」も参照)。が、所詮それは学術研究の成果を活かして仕上げた一種の研究書にすぎず、井上の生涯を追い、その生きざまに触れ、人物像をくまなく描こうと意図したわけではない。
徳富蘇峰は、郷里の大先輩の訃報を伝えるに際し、「彼は自から動かざるも、其の高官、大僚を動かして、自己の意見を貫けり」と評した。自ら行動して政策を行うというより、あくまで法制官の立場を守りつつ、当局者に自論を展開し説得することで政策実現に繫げた。ここに井上毅の扱いにくさがあるが、著者はその困難をいとも軽々と乗り越えて見せる。
まったくの偶然だが、私が二十年近く遅れて着手した井上評伝の書き下ろしに手を染め、成稿に向けて悪戦苦闘していた頃、ちょうど川越氏も本書に結実する連載に営々と取り組んでおられたようで、その熱量が本文六百十余頁の大冊を生み出した。これによって井上の生涯と生きざまはみごとに映し出され、その人物像も鮮やかに浮かび上がっている。
氏が傾注した井上毅は、明治政府の要路者に重用された稀有な法制官僚で、今日、明治国家のグランドデザイナーとも評される。憲法制定以前から主要な法令の立案や清国との外交交渉などに臨んだだけでなく、帝国憲法や皇室典範などの主要法規の調査・検討、そして原案の起草や枢密院での審議にいたるまで、ほぼ一貫して憲法体制の基礎固めに尽力した。官途に就いたのは三十歳頃とやや遅く、司法省にしばらく出仕した後、太政官大書記官・宮内省図書頭・法制局長官・枢密院書記官長などを歴任し、伊藤博文の求めに応じて文部大臣も務めている。
明晰の頭脳、該博の学識、荘重典雅の文章──。その謦咳に接した穂積八束は、「此の法憲編成の時代に於ては、最其の用を見たるなり」といい、「夙に廟堂重臣の間に信用せられ……初は大久保[利通]公に信任せられ、中ごろ岩倉[具視]公を補佐す……後に伊藤[博文]公の憲法調査を補助し、功ありしことは顕著なり」と顧みる。死期の近づいた井上自身、「一書生より進みて重職に居り漸く報功の機を得たるは、全く岩倉、大久保、伊藤、山縣[有朋]諸大人の誘掖に倚る」旨述べ、「此の諸家に対して交誼を忘るべからず」との家範を遺している。
その大久保の次男として生まれ、親戚の養子となり内大臣まで務めた牧野伸顕が、娘婿の吉田茂の長男で牧野の孫に当たる吉田健一とやり取りする場面から本書は始まる。現行憲法の施行を翌日に控えた1947年(昭22)5月2日のことである。翌日の憲法施行日を描く終章は、かつて文部次官になった牧野が井上文相とことばを交わした時の記憶を辿り、絢爛の法でありたいと願う一方で不磨の大典などに仕立てたつもりはないという井上への想いとともに、厳しい指弾を浴びることになった明治憲法の運命を受け入れるほかない牧野の哀しみを描いて閉じる。
著者はここで、「全七十六条の憲法を見よう見まねで作った男を、自分だけは忘れない」と牧野に語らせる。井上としては「外つ国の千種の糸をかせきあけて大和錦に織りなさはやな」と全身全霊を傾けたつもりだが、そう見られていたのかとやや複雑な思いにかられることだろう。
大久保を始めとする政府要人との出会いも印象的に織り込まれ、史実との行き来を可能にしてくれる。なかでも明治14年7月初め、井上が三大臣の内命を受け、密かに憲法の取調べを進めていたことを知った伊藤が、「此の如き重大事件に付き、書記官輩の関係然るべからず」と激しく𠮟責して喧嘩寸前となったばかりか、大隈重信や岩倉具視などへの不信感を伊藤が募らせたことは、専門家にはよく知られている。その出来事をわれわれは当事者の書翰などから知るのであるが、小説家の手にかかると、その場に居合わせたかのように再現される。
さて、明治憲法の制定というと、初代内閣総理大臣、伊藤博文を想い浮かべ、その功績に帰する一般の方は今でも多い。しかし、伊藤が結成した、井上に伊東巳代治・金子堅太郎を加えた起草トリオの協働なしには憲法草案などの起草・検討は考えられず、三条実美に近い柳原前光などの助力がなければ、皇室典範の成案も得られなかった。後に半官的注釈書として重宝される『憲法義解』につながる憲法・典範の説明文も、もとは井上毅が手がけたものである。そういう意味で、本書が江湖の読者に迎えられ、これまでの先入観を根本からくつがえす契機になることを願っている。
(おおいし・まこと 京都大学名誉教授)



