対談・鼎談
2026年2月号掲載
内田若希『意味ある敗北とは何か─アドラー心理学で読み解くトップアスリートの言葉─』刊行記念
階段を一段上がるのは勝利のときばかりじゃない
国枝慎吾(パラリンピック男子車いすテニス金メダリスト) × 内田若希(九州大学大学院人間環境学研究院准教授)
車いすテニスのレジェンドと長い交友関係のある研究者が勝利への道筋、メンタルの保ち方を語る。
対象書籍名:『意味ある敗北とは何か─アドラー心理学で読み解くトップアスリートの言葉─』
対象著者:内田若希
対象書籍ISBN:978-4-10-356631-1
内田 国枝さんと初めてお会いしたのは、2010年の飯塚国際車いすテニス大会でしたね。当時私が勤務していた北九州市立大学は公認障がい者スポーツ指導員資格(現・公認パラスポーツ指導員資格)の養成校だったのですが、資格取得のためのボランティア実習で学生と一緒に大会に出向いたことがきっかけでした。すでに世界レベルのトップアスリートだったにもかかわらず、学生たちにも気さくに話しかけてくださって。あの場所で経験したことが、今でも自分の人生に影響していると語る教え子がいるくらいです。
国枝 当時から言葉を交わす機会はたくさんあったのに、内田さんが選手の心理サポートをしていることも、その後、アドラー心理学をスポーツ心理学に取り入れて研究、実践されていることも知りませんでした。何も教えてくれなかったですね。僕には(笑)。
世界1位で使命感を持つように
内田 今回、『意味ある敗北とは何か─アドラー心理学で読み解くトップアスリートの言葉─』で、実は真っ先に書こうと思ったのが国枝さんの「子どもたちが『野球選手になりたい』『サッカー選手になりたい』と同じように、『車いすテニス選手になりたい』と言ってくれるような活動を目指す。それは非常に大きな意志として僕の中にあります」(2021年6月30日 HUFFPOST)という言葉でした。国枝さんは勝利に対してすごくストイックな反面、自分のこと以上に未来のアスリートにも視野を広げている。そこにも価値を見出して競技に取り組む姿に尊敬の念を抱いていました。
国枝 ありがとうございます。
内田 国枝さんと稲垣康介氏との共著『国枝慎吾 マイ・ワースト・ゲーム 一度きりの人生を輝かせるヒント』(朝日新聞出版)にも、先人の車いすテニスプレイヤーの方々の礎があり、自分の活動を経て、未来の選手たちに繫いでいく「志」が書かれていて心を動かされました。
国枝 車いすテニス界のことを広く考えるようになったのは、2006年、22歳のときに初めて世界ランキング1位になってからですね。大学生だった頃は今のようなアスリート雇用(企業が社員として雇用し、競技活動と仕事を両立させる雇用形態)もなく、先輩たちは大会のたびに有休を消化して多額の遠征費も負担しながら1週間以上の遠征に行かなければなりませんでした。それが苦しそうに見えて、僕は2004年のアテネパラリンピックで引退しようと思っていたんです。ところが齋田(悟司)さんと組んだダブルスで金メダルを取ったことで、母校の麗澤大学が車いすテニス選手として雇用してくれることになった。それで遠征も出張扱いになったのですが、30歳で引退したとしても、仕事のうえでは新入社員程度のスキルしか持てない自分にリスクを感じたんです。いわゆる「プロスポーツ選手」に見合う年収をもらえるようにならなければ、このスポーツはなくなってしまう。世界1位になったことで、自分がこの状況を変えなければならないという使命感を持つようになりました。
内田 アドラー心理学にも、目の前にあるコミュニティだけじゃなくて、過去から未来までの社会が良くなることを見据えている「共同体感覚」という概念があって、まさしくそれを体現している方だと思いました。
国枝 2000年代からグランドスラム(4大大会)に車いすの部も加わるようになって、現役生活のピークでチャンスが巡ってきたという幸運もありました。もっと早くにメジャー化が進んでいれば、先輩方もプロに転向していたかもしれない。そう考えると、僕は先輩方が育て上げた樹木から、果実をいただいただけなんですよ。
内田 国枝さんはその果物を食べて種をまき、苗から木を育て果樹園を広げて来られたのだと思います。車いすテニスでは若いプレイヤーも国枝さんの意志を引き継ぐように、世界が広がっていっている感じがします。
国枝 上地(結衣)さんや小田(凱人)くんのようにプロ活動する選手が続いてくれたのはうれしいことですし、ユニクロの柳井(正)社長と引退会見をしたときに、「車いすテニスという新しいスポーツジャンルを確立し、産業にした」とおっしゃってくださって、それを何よりも誇りに思っています。グランドスラムでも年々賞金が上がってきていて、現在は優勝すれば1000万円ほどは獲得できるようになりました。これから後輩たちがまた世界をどう広げてくれるのか、今度は見る側として楽しみにしています。
逆境をどう乗り越えたか
内田 国枝さんは「オレは最強だ!」という言葉を座右の銘にされてきましたし、世間一般のイメージは「常勝・国枝」です。世界ランク1位だったとき、関係者の中にも「今後5年、慎吾が負けることはない」とおっしゃる方さえいました。ですが、2016年のリオパラリンピック前に右肘の手術を決断し、ダブルスで銅メダルを獲得したものの、その後、停滞期が続きました。東京パラリンピックのシングルスで金メダルを獲得するまで、どれほどの葛藤があったのか……。国枝さんは、どのように逆境を乗り越えて来られたのでしょうか。
国枝 これも幸運でしたが、2013年にパラリンピックの自国開催が決まって、その瞬間に「東京で金メダルをとる」というのが最大の目標になり、その後、心の支えになりました。リオの後に3ヵ月間は安静にと言われてラケットを持たずにいましたが、コートに戻っても痛みは変わらない。絶望して妻に「引退だわ」と電話したのを覚えています。ただ休んでいる間にも、リオで金メダルを取ったゴードン・リードのバックハンドを参考に、自分の状態を分析していました。彼は打つときに自分とは肘の向きが逆だったので、同じように打ち方を変えれば、肘への負担が軽くなるのではと思ったんです。もちろん、変えればまったくの初心者状態に戻ってしまう。大きな挑戦でした。翌2017年は今まで負けたこともない選手に負けまくって、1回戦で敗退することもあった。何度やめようと思ったことか。それでも、「東京で勝つ」という夢の力を自分自身感じていたように思います。
内田 アスリートはもちろん、日常を過ごす私たちも、目標に向かって階段を上がっていきますが、多くの人たちは勝利したときだけ一段上がれると思っています。ですが、本当は負けたとしても上がることができる。国枝さんは東京に向かって、いつも「ここで自分がすべきこと」を見失わず、階段を上がり続けていたんですね。
国枝 逆に勝ち続けていたほうが、一段上へ行けなかったと、僕も思います。敗因を分析することで、自分を変え、成長するチャンスが生まれる。勝ち続けていると見えにくいから、そこがチャンピオンの苦しさかもしれません。大挫折を喰らい、挑戦者でいるうちに様々な試行錯誤をして、その中で得られた答えは自分のスキルに繫がりました。東京での金メダルはリオの挫折があったからこそ。「敗北」に意味があったと感じています。
内田 勝利も貪欲に求めて来られたかもしれませんが、それと同様に、国枝さんが「今何をするか」にフォーカスしてきたのが伝わってきます。アスリートによっては、新しいスキルに挑戦していても、試合で負けそうになるとその挑戦をやめてしまうこともある。国枝さんが苦しくても考えることをやめなかったというお話を聞くと、やはり挑戦し続けることの大切さを改めて感じます。
国枝 それでも試合中は反省なんてしないんですけどね。ネガティブな渦に巻き込まれるので、ポイントから次のサーブを打つまでの25秒間に、「オレは最強だ!」と思えるか、レシーブでは1球目をいかにマインドセットして臨めるか、だけを考えています。
内田 後悔は過去に、不安は未来に、と人間の感情は時制に結びついています。たとえばサーブを失敗したらどうしようと思うのは未来に対する不安です。サーブを失敗した過去に対しては不安だとは思わない。過去にとらわれて後悔ばかりしても、不安にとらわれて未来を考えても、自分の思考は定まりません。専門用語でマインドワンダリングと言いますが、「今ここ」に集中することが、もっとも心の安定に繫がるんです。
国枝 これまでメンタルトレーニングに対しては「心を強くする」という印象があり、どんな場面でも不安や恐れを抱かない状態にするのかと思っていました。でも、僕はどんな試合の前でもずっと怖かったし、東京のときなんて怯えまくっていました(笑)。セルフトークやアファメーション、ルーティンなどを“テクニック”として取り入れることで、サーブまでに「オレは最強だ!」というマインドに到達できるようにしたんです。フォアハンド、バックハンドの練習と同じように、マインドセットをスキルとして習得しようと練習してきました。
内田 初期のスポーツ心理学では、恐怖や不安はパフォーマンスを阻害するから取り除くという考え方が主流でした。もちろん、それがハマる人はそれでいい。ですが、晴れの日もあれば雨の日もあるように、マイナスの感情が湧くのは自然なことで否定しなくてもいいんです。雨の日には傘を差すように、国枝さんの傘の差し方は、「スポーツ心理学のテクニックの習得」だったということですね。
一番喜ぶのも自分、悲しむのも自分
国枝 『意味ある敗北とは何か』には、非常に共感できる部分がありました。まずは「勝利の価値よりも大切なことがある」ということ。引退してみると、25年以上の現役時代であっても人生のうちの何章かにすぎないとわかる。人生のすべてではないんです。
内田 私もスポーツの世界に20年以上身を置いているので、アスリートにとって勝つことがどれだけ意味があるのか、重いことなのかは、もちろん理解しています。でも、長い人生の中で競技にかけるのはほんの少しの時間。そこで燃え尽きて終わり、じゃないですからね。
国枝 僕自身、勝ちにこだわって視野が狭くなるタイプでしたが、スポーツで不幸せになった人も知っているので、スポーツの一番の目的は人生を豊かにすること、そこが大切だと思っています。引退した今、僕にとってテニスは「最強の趣味」。60~70歳まで長くできるスポーツだから。好きなことは人生を豊かにしますし、そもそも本当に好きなことって、実はそんなに多くないですよね? だからこそ、その「好き」を大切にしてほしい。
内田 スポーツに限らず、好きという気持ちは、何をするにも原動力になりますから。怪我や精神的な苦労もあるとは思いますが、スポーツの場で選手たちから、その「好き」が奪われることがないようにと願っています。他のアスリートの言葉で印象に残っているものはありますか。
国枝 内村航平さんの「頑張るときはもう自分のことだけ考えてやってほしいなっていう。もう周りとか関係なく、超ジコチューでいいと思うし、自分のためだけに」(2024年1月11日 NHK NEWS WEB)という言葉ですね。僕もプレッシャーを感じることが多くて、その気持ちはどこに起因しているんだろうって考えたんです。「何のためにやっているのか」を突き詰めると、結局は自分のためにやっている。勝っても一番喜ぶのは自分。負けても一番悲しむのは自分。もちろんファンやスポンサーは大切な存在ですが、そのためにと考えると、変なプレッシャーが出てきてしまう。だからまずは自分のために戦えばいいと、試合のときには言い聞かせていました。
内田 アスリートがプレッシャーを感じるのは、「他人軸」になっているからなんですね。他者からの評価もスポンサーとの契約も、プロであれば考えてしまうのは当然。だけど、そこに囚われると、常に「ジャッジ」にさらされる。人の目、評価を気にすればするほど、何のためにやるのかわからなくなるし、競技をすること自体つまらなくなってしまいます。国枝さんがおっしゃっているように「自分軸」に戻ることが必要です。自分が自分の一番の味方であり続け、一番の応援団であるように。
国枝 もうひとつ、堂安律さんの「今までとひと味違う代表戦だった。めちゃくちゃ緊張したし、不安にもなるし、自分でいいのかと思いながら強い自分を演じてピッチに立った」(2023年8月29日 NHK アスリート×ことば)に強く共感しました。先ほどもお話ししましたが、オンコートでは「オレは最強だ!」と自信を持ってプレーしますが、コートを離れると、自分に足りないものは何だろうとか、彼と比べると自分はあまりに弱いとか、けっこうネガティブになってしまうんです。ただ、そこから次にやることが見つかる。コートの外でも「最強だ!」なんて思っていたら、逆に自分の成長を阻害しかねなかったと今は思います。
内田 ネガティブな感情を、目的地に向かうエネルギーにできるのは、すごくいい循環が生まれていますね。ネガティブな自分を排除するのではなく、そこに意味を見出している。トップアスリートには共通の思考があるのかなと思う一方、こうした感覚はアスリートの特殊なものではなく、日々の生活にも参考にできるんですよ。私たちは学校や会社、日常生活でも評価され続けるので、他人軸ではなく自分軸であること、ネガティブな感情も理想とする自分や望む未来へつながる力につなげられることなど、アスリートの方たちの思考は私たちに道しるべを示してくれます。
自分は将来どうなりたいか
国枝 実は僕自身、引退して割と悩んでいることがあって、「これから何をされるんですか」と言われると、ツラいというか……(笑)。引退してから1年目は何か見つけなきゃと自分にプレッシャーをかけていました。アスリートとしての経験上、目標を持ったほうが楽しいことは知っているものの、試合がなくなったことで明確な目標を持つということの困難さを実感しています。そんな僕に何か声をかけてもらえませんか(笑)。
内田 私たちもテストで100点取るとか、大学に合格するとか、この大会で優勝するとか、営業成績を上げるとか誰しも結果を追い続けていますが、それでも、明確な目標を持てないという人は案外多いのではないかと思います。アスリートも引退すると、目に見える結果がなくなりますから、戸惑いを感じるのかも。まずは、「何をやりたいか」よりも「どうなりたいか」を考えるほうがいいかもしれません。できるできないはいったん置いて、どうなりたいですか、と聞かれたときに、何か浮かびますか。
国枝 国内のみならず、海外でも仕事ができればとは思っています。それで引退してすぐに、アメリカ代表チームに連絡を取って、指導や英語を学ぶためにフロリダで1年9ヵ月、アメリカテニス協会のアドバイザーとして働いていました。まだ英語力は不十分ではありますが、良い経験になったと感じています。
内田 海外においても車いすテニスを普及させ発展させること、子どもたちを勇気づけること、英語を使って仕事をすること、働き方についてはまだぼんやりしているところもあると思いますが、そのなかのひとつ、英語を学ぶことにはすでに手を付けていますよね。曖昧なものには不安も生まれます。けれど、国枝さんが挫折のなかで試行錯誤したように、海外の選手と取りあえず何かしらの仕事をしてみるとか、ひとつずつトライアンドエラーでやってみれば、人脈も広がって曖昧なものに形ができてくるはず。無意識でご自身のなかに小さいステップはできているように思います。
国枝 ありがとうございます。本当に勇気づけられました。
内田 今、スポーツの価値を問い直すような「転換期」にあると思いますが、国枝さんのようなアスリートは、そこに光を与えてくれるような存在だと、改めて感じました。今後も何をされていくのか、ご活躍を楽しみにしています。
(くにえだ・しんご パラリンピック男子車いすテニス金メダリスト)
(うちだ・わかき 九州大学大学院人間環境学研究院准教授)
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