書評

2026年3月号掲載

明朗と爽快と美味、庄内の魅力が詰まった快作

佐藤賢一『釣り侍』

池上冬樹

対象書籍名:『釣り侍』
対象著者:佐藤賢一
対象書籍ISBN:978-4-10-428005-6

「サトケンさんが鶴岡を舞台にした釣り小説を書いているんですが、これがものすごく面白いんですよ」と鶴岡市立図書館の友人から聞かされていた。サトケンとは鶴岡出身の直木賞作家佐藤賢一氏の愛称。友人は「小説新潮」に連載中の『釣り侍』を熱心に読んでいて、毎回愉しくて仕方ないというのだが、こちらは雑誌連載まで目を通す暇もなく、一体どんな小説なのかと気になっていた。ようやく一冊にまとめられたので読んだら、いやあ面白い。まさかこんなユーモラスな脱力系の時代小説とは思わなかった。
「私の故郷、山形県鶴岡市は、ちょっと普通でなく釣りが盛んです。江戸の頃の庄内藩が「武用の一助」と藩士に奨励したのが始まりだそうで、おもしろいなと種に書いてみたのが『釣り侍』です。私にとって初めての時代小説になりました」とは作者の言葉だが、そうか、初めての時代小説となるか。
 ご存じのように、佐藤賢一といえばデビュー作の『ジャガーになった男』(小説すばる新人賞)以後、『王妃の離婚』(直木賞)『小説フランス革命』(毎日出版文化賞特別賞)『ナポレオン』(司馬遼太郎賞)と西洋歴史小説の名作を次々に送り出してきたが、一方で、近年は『女信長』『新徴組』『遺訓』『日蓮』『チャンバラ』と日本を舞台にした歴史小説も書いてきた。しかし江戸時代を舞台にした無名の人物は初めてである。
 その日も、夜も明けきらないうちに、大泉藩の勘定目付・前原又左衛門は釣り道具を背負い、長い竿を担いで家を出た。途中、竹馬の友である郡奉行・山上藤兵衛と合流し、二人は城下からおよそ二刻歩いて海まで出た。磯釣りが目的だった。北国羽州の大泉藩は海に面していることもあり、釣りが盛んで、武用の一助にもなると奨励されていたから、釣り好きの武士たちは堂々と釣りに励んでいた。
 だが、大事件が起きる。十代目藩主・松平忠昭公も磯釣りに来ていたのだが、高波にさらわれて溺死。しかし釣りを奨励する藩内で溺死したとは幕府に報告できない。急な病で逝去したことにして、跡目相続を急ぐことになる。
 十代様の嫡子で十三歳の万千代様が後を継がれると思われたが、忠昭の弟君である鉄之介様を推す声も強く、藩は二分する。用人・川村太右衛門をはじめとする家老たちが万千代様を、中老・松平信保が鉄之介様をそれぞれ推した。いわば家老派と中老派の対立で、又左衛門は前者に、藤兵衛は後者に加わらざるをえなくなる。そしてひょんなことから、跡目争いは磯釣りで決着をつけることになる。
 いわば跡目相続の御家騒動だが、本書にはホームドラマとしての側面もある。サトケン小説ではお馴染みの勝気な妻に頭のあがらない夫のぼやきと駆け引きという夫婦小説の興趣のほかに年頃の娘の結婚問題もある。又左衛門は娘の紗世と藤兵衛の息子の弁四郎を結びつけようとし、それは藤兵衛も同じ。だが、敵対しては縁談は成立しない。ではどうすればいいのか? いや、そもそも磯釣りで決着といっても、場所はどこで、いかなる規則を作って戦うのかも決めないといけない。ということで二人は家老派と中老派を代表して、いまでいうロケハンに赴く。
 しかも、ここからが面白いのだが、万千代様は江戸育ちで一度も釣りをしたことがない。一方の鉄之介様は庄内(作中では荘内)育ちで、幼いころから釣り経験は豊富。どうみても絶対的に不利な状況である。さあ、どうする? 釣り勝負の一部始終のほかに、その裏側で画策される中老派の陰謀も描かれ、活劇も繰り広げられるから、実にスリルに富む。
 庄内藩を舞台にした時代小説といったら、藤沢周平の海坂藩ものである。『三屋清左衛門残日録』など藩の御家騒動の話が多いけれど、藤沢周平ほどの緊迫したミステリ的興奮には包まれず、むしろ明るくおおらかな可笑しみがある。初期の暗さから脱却した『用心棒日月抄』のような明朗で爽快な趣を強く押し出した小説といえばいいか。
 また特徴的なのは、藤沢の海坂藩ものには庄内の日常的な料理が出てきて、飲食の楽しさを味わわせてくれるけれど、本書も負けてはいない。口細鰈の焼き物、アケビの味噌詰め、“からとり”の和え物など次々と読者の前に差しだしてくれるからたまらない。釣りはとんと駄目だが、学問に優れて教えることの得意な弁四郎の、料亭での実食中継などという思わず唾がわくコミカルな場面もある。
 ともかく本書『釣り侍』は、趣向に富む時代小説の快作であり、誰もが大泉藩の新作を期待したくなるだろう。早く第二作を読みたいものだ。

(いけがみ・ふゆき 文芸評論家)

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