書評
2026年3月号掲載
こんなふうに生きられたなら
ローベルト・ゼーターラー『名前のないカフェ』(新潮クレスト・ブックス)
対象書籍名:『名前のないカフェ』(新潮クレスト・ブックス)
対象著者:ローベルト・ゼーターラー/浅井晶子 訳
対象書籍ISBN:978-4-10-590206-3
コーヒーを淹れているジーモンという男の背中が、心の奥にずっと残り続けている。人生においてとても大切なことが、その寡黙な佇まいのなかに、滲んでいる。物語は決して単調ではない。読み進めるほどに、心の奥を揺らすものが、次々と立ち現れてくる。ジーモンをはじめ、そこに登場する人々の人生は、それぞれが少しずつ傷を抱えながらも、言葉少なに寄り添い合い、いつの間にか一枚の地図のようなものを描き出している。
ジーモンは、裏通りにある名前のないカフェの主人である。目立つ看板もなく、ひとつも宣伝もせず、ただ毎日同じ時間に店に入り、グラスを磨き、飲み物の支度を整える。
そこにやってくるのは決まった人たちで、一癖も二癖もあるような人ばかりだ。毎朝、同じ席に座り、同じ窓を見つめ、同じ一杯を飲む。生きることのたくましさは、決して大きな出来事ではなく、こうしたささやかで敬虔な習慣のなかに宿るものなのだと教えてくれている。
ジーモンの人柄は、誰に対しても分け隔てなく向き合う、深くやさしいまなざしにあふれている。彼は客とほどよい距離を保ちながら、会話の流れを邪魔することなく、少し離れたところでコーヒーを淹れ続けている。その姿勢は、この場所を「誰のものでもないやすらぎの場所」として守りたいという意志が感じられる。そして、カフェとは、店主のための場所ではなく、訪れる人が自分に戻るための、ささやかな居場所であるべきだという思いが、そこにはある。
そんな彼のひたむきさは、派手な努力や野心のかたちではなく、淡々とした日々の繰り返しにあらわれている。毎日、同じことを、同じように、しかし決して惰性では行なわず、そこにいる人の人生を決して否定せずに見つめる。店を清潔に保ち、グラスを磨きながら、その日の一杯と向き合う。人生をていねいに生きるとは、せいいっぱいの感謝を表すことなのだと、ジーモンは言葉ではなく、その働き方で示している。
人との距離の取り方も、この物語の強いテーマになっている。問題を起こす者や酔っ払いも多いが、どんな人物であっても大切に敬い、そこにいることを拒まない。その距離があるからこそ、人はこのカフェで、ようやく自分の本音と向き合いながら人生を歩んでいく。近づきすぎず、離れすぎず、そして尊重する。その愛情溢れた距離感が、このカフェを安息の場所にしている。
この本を読みながら、何度も「やさしさ」という言葉の意味について考えさせられた。やさしさとは、何かをしてあげることではなく、つねに注意を払い、相手の時間を奪わないことなのかもしれない。
ジーモンの客への愛し方もまた、ひたむきで誠実だ。彼は相手に干渉したり、コントロールしようとはしない。代わりに、その人がこの店で過ごす居心地をていねいに扱う。何があろうと、いつもと同じ一杯の飲み物をその人のために心を込めて注ぐ。それだけで、十分なのだと彼は知っている。
愛とは、大きな言葉ではなく、与える時間と気の配り方なのだろう。カフェでの日々は何も起きないようで、いつも何かが起きている。それでも、ジーモンはすべてを受け入れ、ただひたすら見守り、いつもと変わらぬ自分であり続けることを、自分の仕事だと貫いていく。
物語の終盤、ある事情により、10年続けたカフェを閉める決断をする。店の売上が落ちたわけでも、誰かと争ったわけでもない。ただ「ここでやるべきことを、もう十分にやれた」と彼自身が感じたからだ。出来事に逆らわないことも彼の生き方なのだ。
この静かな決断は、この物語の核心でもある。多くの人は、店や人間関係がだめになるまで続けるだろう。あるいは、手放すことが怖くて、惰性のなかに留まり続ける。ジーモンはすべてを肯定することを選んだ。終わらせることもまた、ひとつの愛でありやさしさなのだというように。
『名前のないカフェ』は、人が生きるということの美しさを、ありのままに描いている。ジーモンという人物を通して、読む者は、人生を小さく、しかし確かに生きることの意味を考えるに違いない。こんなふうに生きられたなら、それはきっと、とても豊かな人生なのだと。
強くなくていい。大きくなくていい。うまくやろうとしなくてもいい。まっすぐに人と向き合い、今日という一日をきちんと味わうこと。それだけで、人生は十分に豊かになる。
一杯のコーヒーのように、ぬくもりをたたえながら、長く余韻の残る物語である。
(まつうら・やたろう エッセイスト)


