書評
2026年3月号掲載
遠い国からの光
八木荘司『遠い標的』
対象書籍名:『遠い標的』
対象著者:八木荘司
対象書籍ISBN:978-4-10-356681-6
この小説を入稿まえに一度、それからゲラになって一度、都合二度読んでいる。一度目は、多数登場する未知の人物の名前や地名、戦闘などがそれぞれ実在したものかどうか確かめながらではあったが、テーマといい展開といいテンポのよさといい、物語のおもしろさに引き込まれ、確かめる必要をそれほど感じなくなった中盤以降、はらはらしながらラストまで一気に読んだ。
二度目は、ゲラに明示された参考文献から一部を取り寄せて先にそちらを読み、ネットにあがっている関係資料にも目を通して、この小説が史実どおりに書かれていることをあらためて確認し、読了後には歓喜の声を漏らしたほどだった。
幕末から新政府樹立にいたる維新革命期を、長州の一部隊として幕府軍と戦った被差別民集団がいたのである。身分制度の最下層に身を沈めてきた牛馬の処理を専業とする「垣の内」の人びとは、さとうきびの生産拡大によって国力増強をはかる薩摩に肥料となる骨粉を売って財を成し、独自のルートから銃を手にいれ部隊を編成した。彼らは徳川幕府を倒すことによって、悪しき身分制度をも打ち壊そうとしたのである。
いったい共同体のなかで、どんな教育がおこなわれてきたのだろうか。大年寄と年寄をリーダーに識字能力を高め、修養の徳を積まなければ、ただ恨みを晴らすためだけの血に飢えた暴徒になってしまっただろう。藩内における垣の内の人びとの扱いについては、奇兵隊結成時に被差別部落民を排除した高杉晋作の「見渡せば穢多も乞食もなかりけり吉田の里の秋の夕暮」という歌を引いて、前田朋章という研究者が彼の差別意識を指摘している。また、吉田松陰の愛弟子吉田稔麿が垣の内の人びとの軍への登用を開始したが、そのお触れの内容がきわめて高圧的であったため、差別を敏感に察した垣の内からはひとりも志願がなかったという。
革命勢力においてさえそのような傾向がつよくあるなかで、「屠勇の者」と呼ばれた垣の内の人びとが、武士階級におもねらず、独自に「維新団」「一新組」といった部隊を編成し倒幕戦争の先頭に立った事実を見たとき、武士階級による「上からの教育」ではなく、共同体内での「解放教育」がすでにおこなわれていたのではないかと考えられる。
このような史実について私は調べたことがなかったので、この小説に出会って頭のなかがくらくらした。そうして読み進むごとに、ほんとうにあったことなのだろうか→ほんとうにそうであってほしい→いやこれはほんとうのことなのだ、というふうに、被差別民の命がけの結束と行動について無知であった自分の感情は劇的に変化していった。
ハエでも追い払うように道理を払いのけ怪物化する人間という禍々しい生き物の諸相を作者は縦横に描き出しながら、この小説でもっとも重要だと思われるテーマ──それを自分の言葉で述べてみると、「いついかなるときでも正気を保ち、仲間と他者を思いやり、たとえ永遠の彼方にそれがあろうとも、視線を落とさず前を向いて謙虚に生きる。そうした幸福な人間の状態とはどういうものか」を静かに見据える作者の悠々とした眼差しまで浮かんでくるのである。やがて新平民となる主人公のひとり、まだ二十歳にもならない天才スナイパー新藏の成長物語にこうしたテーマを結晶化させていく手腕は見事と言うほかない。
正史にはあらわれない、草莽の下陰に地虫のように息づく彼らの声が、いよいよコーラスとなって大音量で響きわたるのが「玉倉の丘」のシーンである。「わしらはなにも、武士にしてもらいたくて戦ったわけではねえっちゃ」からはじまり、もっとも現実的で望ましい合意に達するこのシーンこそ、「吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であった」と後年「水平社宣言」で謳われる、その「祖先」の姿であったろう。
人間の真の幸福とはなにか。彼らは目先の利にとらわれず、粘り強く考え、行動する。なによりも調和を重んじ、遠くにあるかもしれぬ希望の国を強引に手元に引き寄せようとしない。まるでおとぎ話のようだが、これは史実なのだ。ラストで語られる新藏の言葉を、ぜひ読んでほしい。
(たかやま・ふみひこ 作家)


