書評
2026年3月号掲載
白洲邸の柿と正子さんの思い出
白洲正子、牧山桂子 ほか『白洲正子が愛した京都』(とんぼの本)
対象書籍名:『白洲正子が愛した京都』(とんぼの本)
対象著者:白洲正子、牧山桂子 ほか
対象書籍ISBN:978-4-10-602312-5
この本は2008年刊行の『白洲正子と歩く京都』を再編集・増補したリバイバル版である。そのもとは、2004年の初夏、今はなき月刊誌「旅」の特集で取材したものだ。ずいぶん昔のものじゃないの、と言われそうだけど、白洲正子が愛した京都は変わることはない。たしかに古寺や山里といえども、景色は多少変化しているだろう。しかしオーバーツーリズムで悲鳴を上げている町中や観光地の変わりように比べれば、そうそう移ろわぬ京都がここにあることを実感していただけると思う。
さて私ごとで恐縮だが、白洲正子さんとの出会いは、別の今はなき月刊誌「太陽」にいた時。駆け出し編集者だったころ、白洲正子さんに書いてほしいことがあって、意を決してダイヤルを回した。面識のない大作家にも電話で突撃依頼があたりまえの時代だった。モシモシ白洲正子先生でしょうか、私これこれこういう者です、◯月号でお原稿をいただけないでしょうか……「あ、今忙しいの」、ガチャン。終了。もちろんこんなことは白洲さんに限ったことではないし、すべて私の未熟さゆえ。忙しい作家の立場に立ってみれば、よく知らん相手からたどたどしい説明を長々聞かされるのはたまったものではない。今ではそう思えるけれど、編集部では耳をダンボにして他人の電話のやりとりを聴いている。けっこうこれがストレスで、どうしても人前で電話がかけられず、こっそり会議室で電話をしているおじさん編集者もいた。
初めてお会いできたのは、その数年後1995年秋のこと。白洲さんの特集を組むことになり、先輩編集者にくっついて鶴川のお家に伺うと、白洲さんはこちらを見て、にっこりと微笑んだ。その後白洲さんと先輩が何を話していたのか、何も覚えていない。吉田茂から贈られたという大きな革張りのソファに埋もれながら、ガラス戸越しに柔らかな日が差し込む中、大きな陶器の灰皿に吸い殻が増えていった光景が目に焼き付いている。
別の日、白洲さんは体調が思わしくなくて、その日のインタビューはキャンセルとなった。私たちがおいとましようとしたら、「柿、持ってく?」と話しかけてくれた人がいた。それが白洲さんの長女、牧山桂子さんだった。見上げると、長屋門の前に立つ大きな木が、たわわに柿を実らせている。毎度来るけど、あの子大丈夫かいな、まあ持っていきな、と気遣ってくださったのだろうか。いただいた柿は甘くて、何か救われたような気がした。
その後1998年に白洲さんは亡くなり、結局私が白洲さんと接したのは、「あ、今忙しいの」と「にっこり」、ほぼそれだけである。
一緒に旅したこともないし、京都について話を伺ったわけでもない。手がかりは、遺された文章と物、白洲さんをよく知る方のお話しかない。しかし、伝聞ならではの醍醐味というものもある。
たとえば、「唐長」の唐紙の話。薄紅をさした雲母摺りの枝桜の柄を気に入っていた白洲さんは、それを書斎側に向けて襖を立てていたところ、夫の次郎さんがそれを見て、そっちにだけ向けておくのはけしからんと怒りだし、居間の方に向けろと言って襖をひっくり返した。しばらくすると、いつの間にか正子さんが自分の側に向けてひっくり返していた。こういう話は、おそらくご自身でされることはないだろう。半ば呆れながら冷めた目で見ていた娘の桂子さんだからできるお話である。
娘をほったらかして取材に明け暮れていたが、娘が「別にいいもんね、もっと楽しいことがあるし」と言うと、「えっなに!? どこ!?」と食い下がってきたという白洲さん。ほんとに負けず嫌いで娘にまで対抗心を燃やすのよ、と桂子さんは言うけれど、きっと白洲さんなりに娘を心配していたのではないかなあ、と思ったりもする。
錦小路の魚屋「丸弥太」が大好きだったのは、母娘の数少ない共通項。料理好きな桂子さんは魚が目当て、正子さんは女将さんとの束の間のおしゃべりが楽しみで、店先のちっちゃな丸椅子に腰かけて、忙しい女将さんの手があくのをじっと待っていたという。正子さんのその少し丸まった背中を思うと、ふと泣きそうになる。
かくれ里に分け入り、明恵や西行ゆかりの古寺に通い詰めた。一方で、小さな店を営み、ひたむきに生きている市井の人に惹かれた。そのどちらも、白洲さんにとって大事な京都だったのだろう。
一昨年のこと、白洲邸の柿の木が倒れた。それも、ちょうど誰もいない時間、場所を選んだように。忽然とその姿は消えてしまったけれど、30年前のあの柿の甘さは忘れない。「まあ、あとは好きにおやり」。過去を振り返るのが大嫌いな白洲さんが、今はそう言ってにっこりしてくれるような気がしている。
(あきやま・れいこ 編集者)


