書評

2026年3月号掲載

ロシア大使が目撃した「歴史の転換点」

上月豊久『プーチンの歴史認識─隠された意図を読み解く─』(新潮選書)

船橋洋一

対象書籍名:『プーチンの歴史認識─隠された意図を読み解く─』(新潮選書)
対象著者:上月豊久
対象書籍ISBN:978-4-10-603941-6

 2005年の年次教書演説で、ロシアのプーチン大統領は「ソ連崩壊は二〇世紀の最も大きな地政学的な惨事である」と述べた。
 冷戦敗北によって、ソ連邦は15の共和国に分裂した。ロシアはソ連邦に比べて人口で3分の2、面積で4分の3に縮んだ。プーチンの戦争は、すべてこの「惨事」のトラウマとイレデンティズム(領土回復主義)を背景にしているように見える。
 2019年1月、安倍晋三首相がモスクワを訪問、プーチン・ロシア大統領と会談したとき、プーチンは首脳会談に先立って安倍を執務室に招き入れた。日本の指導者がクレムリンの大統領執務室に入ったのは「この時が最初で最後である」と当時、ロシア大使だった著者は記している。執務室から出てきた安倍は、「ピョートル大帝の胸像が置いてあった」と語った。
 プーチンが尊敬するロシアの歴史上の人物は「ピョートル大帝とエカテリーナ大帝」である。
 ピョートル大帝の領土の拡大の方向は「北」であり、その成果はバルト海の支配の確立であったのに対し、エカテリーナ二世の主たる拡大の方向は「南」であり、その成果は黒海を覇権の拠点として確保したことである。この二人はロシア帝国の版図の拡大を実現させた皇帝であり、ロシアの歴史上「大帝」の称号を得ている。
 プーチンの歴史的情念は、ソ連邦の復活ではなく、帝政ロシアの版図拡大の歴史に向けられる。
 例えば、1768年のエカテリーナ二世時代のオスマン帝国との戦争(第一次露土戦争)に勝利した結果、結ばれた講和条約(キュチュク・カイナルジ条約)である。
 ここでロシアは(1)黒海北岸の一部地域を獲得(2)オスマン帝国内の正教徒の保護権を獲得(3)ボスポラス海峡とダーダネルス海峡の自由航行権を取得(4)クリミア半島入手に布石、を実現した。今、プーチンがゼレンスキーに突きつける要求──黒海に面するヘルソン州他3州の併合、ロシア正教会の優位の確保、黒海の航行の自由、クリミアの併合──はいずれもエカテリーナ二世の目指した戦略的課題の目標と「符合」している。
 だが、その「符合」はロシアの勝利と長期的な安全保障を必ずしも保証しない。むしろ、ウクライナ戦争は、1853年~1855年のニコライ一世時代のクリミア戦争におけるロシアの大誤算と大敗北と韻を踏んでいるのかもしれない。すなわち、(1)いずれの戦争も黒海を戦場とした(2)ニコライ一世は、英国とフランスが軍事介入してくるとは思わなかったがプーチン大統領も、西側諸国のここまで強いウクライナ支援を予想していなかった(3)いずれも戦争が長期化した。
 ウクライナ戦争が起こった時、在ロシア日本大使館は本省にこの大事件を報告した。
 著者は、その末尾にブレジネフ書記長はアフガニスタンに侵攻しソ連邦を崩壊に導いた指導者として記憶されていることに触れつつ、次のような大使の見方を書き添えた。
「プーチン大統領はウクライナへの侵攻によりロシアを『孤立と衰退』に導いた大統領として記憶されることになる可能性がある」
 ウクライナ戦争からすでに4年が過ぎた。ロシアにとってウクライナ戦争は、第一次世界大戦よりも第二次世界大戦よりも長い戦争となった。
 ロシアはこの間、ウクライナにおける占領面積を7%から18%に増やした。
 しかし、失ったものははるかに大きい。
 フィンランドとスウェーデンがNATOに加盟した。フィンランドとロシアの国境は1340キロメートルに及ぶ。スウェーデンの加盟により、バルト海はNATOに囲まれた。NATO、日本、オーストラリアなどの国防費が飛躍的に増大し、かつ、結束を強めた。何よりも全ウクライナが反ロシアで統一した。
 どのような和平が成立するにせよ、この戦略的環境の大幅な悪化はおおむね変わらないだろう、と著者は見る。
 著者は、大学時代、外交官を目指していると指導教官に伝えたところ、「外交官は歴史の転換点の目撃者」となる機会がある、と言われ、励まされたという。
「プーチン大統領の歴史解釈を精査することを通じて、プーチン大統領の政策の隠された意図を知る『よすが』を見出すことができる」と期して、著者は本書を書き始めたと綴っている。
 これは、21世紀に入って最大の「歴史の転換点の目撃者」の証言である。その奥行きの深い、確かな証言は、この「歴史解釈の精査」を濾した歴史的パースペクティブを踏まえてこそ可能になった。

(ふなばし・よういち 国際文化会館グローバル・カウンシル・チェアマン)

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