書評
2026年3月号掲載
普遍的な正しさを疑わなかった「西側世界の傲り」
細谷雄一『危機の三十年─冷戦後秩序はなぜ崩壊したか─』(新潮選書)
対象書籍名:『危機の三十年─冷戦後秩序はなぜ崩壊したか─』(新潮選書)
対象著者:細谷雄一
対象書籍ISBN:978-4-10-603942-3
1989年の東欧の民主化とベルリンの壁崩壊、そして1990年の東西ドイツ統一は、冷戦の終焉を告げる歴史的転換点であった。1990年11月に欧州安保協力会議(CSCE)のサミットで採択されたパリ憲章は「民主主義・平和・統一の新たな時代」の到来を謳い、同年にブッシュ米大統領は「新世界秩序」を唱え、「法の支配がジャングルの掟に取って代わり(…)強者が弱者の権利を尊重する」世界を予告した。
しかし、いまやこうした希望は消え失せた。世界各国で自由民主主義は後退し、権威主義が台頭するとともに、国際法や国際協調は踏みにじられ、大国間の競争が国際政治の基調となり、軍事的な衝突が各地で繰り広げられている。アメリカ優位の時代は終わり、いまやアメリカも自国第一を掲げ、世界の不安定要因となっている。2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻を目のあたりにして、ドイツのショルツ首相は「時代の転換」を語り、日本の岸田首相も「世界史の転換点」と表現した。
いかにして冷戦終焉時の希望と期待は裏切られ、現在の状況にいたったのか。本書は、冷戦終焉後からロシアによるウクライナ侵攻までを「危機の三十年」と位置づけ、その間の国際政治の大きな流れを描く試みである。
冷戦終焉から現在までの国際政治を書くには、冷戦終焉期に関する最先端の歴史学的研究をふまえる必要がある一方、同時代の国際政治への透徹した理解も求められる。著者はその難しい仕事をやってのけた。本書は、優れた外交史家であると同時に、現状分析と政策提言を続けてきた著者だからこそ書くことができた、貴重な国際政治の同時代史である。
本書のタイトルは、言うまでもなく国際政治学の古典中の古典であるE・H・カーの『危機の二十年』に由来する。カーはその著書で、第一次世界大戦後のヨーロッパにおいて多くの人びとがユートピアニズムに浸かり、国際政治におけるパワーの重要性を軽視していた点を批判し、リアリズムの視座から国際政治を捉える重要性を説いた。
このカーの著書にならい、本書は「危機の三十年」を、ユートピアニズムや楽観主義が浸透した最初の十五年から、大国間対立と民主主義の後退が露わとなる次の十五年へと転落していった時代と捉える。
冷戦終焉後の西側諸国では、民主主義、新自由主義、グローバリズムが世界中に浸透し、平和で協調的な新しい国際秩序が成立するというユートピアニズムが広がっていた。しかし、こうしたリベラルな価値を拡大しようという試みが、中国やロシアのような権威主義的な大国の反発や不満を招いて、現在の危機を醸成したと本書は指摘する。
著者は、1990年代の西側世界における多幸感とユートピアニズムの横溢を、思想と行動の両面から描き出す。F・フクヤマは自由民主主義こそが「人類のイデオロギー上の進歩の終点」だと説き、アメリカの国際政治学者たちは民主主義を世界に拡げることが世界平和をもたらすと主張した。そうした思想に則って、アメリカをはじめとする西側諸国は、冷戦後の新しいヨーロッパ秩序を「自決権」というリベラルな規範を基礎として創り出そうとした。中・東欧へのNATO拡大も「自決権」の行使だとされた。しかし、かかる振る舞いは、自らの「勢力圏」にこだわるロシアの世界観と対立した。そうした双方の異なる国際秩序観が衝突する場所がウクライナに他ならない。
本書は、2004年のオレンジ革命、2014年のマイダン革命やクリミア併合といった、ロシア・ウクライナ戦争にいたる過程も追跡するが、その際の本書の特徴は、さまざまな政策決定者の回顧録を駆使して、外交交渉をビビッドに描いた点にある。とりわけ、プーチンと信頼関係を築いたブレア、及び腰のキャメロン、ウクライナの安全に強く関与したジョンソンなど、イギリス外交の役割を軸に西側とロシアとの関係を分析していくくだりは、イギリス外交史家としての著者の面目躍如である。
自らの普遍的な正しさを疑わなかった「西側世界の傲り」に対する著者の評価は厳しく、「片方における「道義」は、他方における「脅威」と映ることに対して、われわれはより敏感で、繊細であるべきであった」と述べている。注意すべきは、こうした歴史学に基づく説明が、ロシアの国際法違反や非人道的行為を何ら免責しないとも著者が論じている点である。歴史学的な説明と、眼前の国際問題に関する規範的判断は区別されるべきなのである。
著者の姿勢は、カーに加え、I・バーリン、J・M・ケインズ、あるいはJ・グレイといった、普遍主義に懐疑的で、価値多元的なリベラリズムの系譜に連なるものと言えよう(著者には『大英帝国の外交官』というカーやバーリンを論じた著作もある)。
カーは『危機の二十年』のなかで「政治学が対象とする事実は、これを変えたいと思えば変えることのできる事実なのである」と述べた。ただし、変えたいと思うならば、まず事実を知る必要がある。そのために本書は必読である。
(いたばし・たくみ 東京大学教授)



