書評

2026年3月号掲載

朝野幸一『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』特集

「読み書き」という名の灯り

朝野幸一『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』

伊与原新

対象書籍名:『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』
対象著者:朝野幸一
対象書籍ISBN:978-4-10-356731-8

「知」の光がなければ、世界は暗闇である。南北戦争以前、米国南部州の多くでは奴隷に教育を施すことが厳しく禁じられていた。「読み書き」という名の灯りを奪い、「無知」という鎖で縛りつけることで、奴隷を暗闇に閉じ込めておくためだ。
 自由への鍵が読み書きにあることに気づき、危険をかえりみず密かにそれを身につけた奴隷もいたが、その数は多くない。主人の息子の教科書を盗み見るなどして文字を学び、のちに奴隷制度廃止に多大な功績を残した元奴隷の活動家、フレデリック・ダグラスなどは突出した例だろう。
 いうまでもなく、現代の日本においては、子どもたちには等しく教育を受ける権利があり、大人たちには教育を受けさせる義務がある。学校で机に縛りつけられるのが苦痛だったという人はいても、読み書きなど身につけなくてよかったと思う人はいないに違いない。
 ところが、この現代においても、読み書きという灯りが人より弱いために、暗闇に取り残されたままの子どもたちが少なからず存在する。しかもそれは、生育環境や本人の知的能力、ましてや努力不足などに帰せられるものではなく、彼らの脳の特性が周囲に(しばしば本人にさえ)理解されていないことによって生じている事態なのだ。
 その特性とは、「読み障害(ディスレクシア)」、「書き障害(ディスグラフィア)」と呼ばれる学習障害である。どちらも音韻処理(文字を音として読み取る、音を文字として書き出す)に関わる脳機能の連携がうまく働かないことによる障害だと考えられているが、根本的な原因はまだよくわかっていない。
 本書『14歳、字を書けない私が「書く」喜びを手にするまで』は、「書き障害」の当事者による奮闘と救済の記録である。と同時に、そうした障害の存在と実態を大人たちに知らしめる問題提起の書、そして今まさに暗闇でもがいている子どもたちへ向けた手引き書にもなっている。
 十四歳の男子が素朴な筆致で思いの丈を綴った本だと思い込んでこれを開くと、予想は大きく裏切られるだろう。文章は素晴らしく達者でウィットにあふれ、最初の数ページを読むだけで著者が非凡な知性の持ち主であることがわかる。中学生ばなれした知識と語彙の豊富さから、非常な読書家だということも明らかだ。そんな彼が「手書きで字が書けない」という大きなハンデを背負っているという事実には、ただ驚くしかない。
 誰の目にも聡明なこの著者でさえ、自身の障害についてはっきり認識するまでは劣等感に苛まれ、今なお自己肯定感は低いままだという。過去には「こんな迷惑をかける自分なんていなくなったほうがいい」と、自傷行為や自殺未遂を繰り返したというのだから、その苦しみは当事者以外には想像もつかないほど深いのだ。
 著者は小学五年生のときに支援団体と出会い、暗闇を照らす別の灯りを手に入れた。タブレットやノートアプリなどのIT機器である。著者がそれらを駆使し、自由自在に書くという喜びを取り戻していく過程には、心を揺さぶられずにいられない。
 そんなテクノロジーがあるのならどんどん使えばいいと思うかもしれないが、ことはそう単純ではない。教育現場の理解不足に加え、当事者や家族でさえ、それが読み書き障害によるものだと気づかないケースも多いのである。著者も憂いているように、誰にも障害に気づいてもらえないまま「自分は頭が悪い」などと思い込み、読み書きをあきらめてしまった子どもたちも無数にいたはずだ。
 かつて私はそんな青年を、『宙わたる教室』という小説に登場させた。読み書きに難があることを周囲に隠し、ぐれて中学にもろくに通わなかったその青年は、定時制高校で一人の教師と出会い、自身の障害とその対応策を知ることで、学ぶ喜びを初めて味わう。
 読み書きという名の灯りさえ携えていれば、人は必ず学ぶ。灯りはもちろん、各人に合ったものを使えばいい。子どもたちが、それぞれにふさわしい灯りを手にしているか。そこに注意を払い、配慮を施すことこそ、大人たちが負う「教育を受けさせる義務」であろう。
 AI時代を迎えつつある今、学ぶ意味が揺らいでいると主張する向きもある。しかし、AIの奴隷になりたくなければ、人はやはり学ばなければならない。だからこそすべての子どもたちに、灯りは必要なのである。

(いよはら・しん 作家)

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