書評
2026年3月号掲載
私の好きな新潮文庫
30年前から私を作ってくれた名著たち
対象書籍名:『日出る国の工場』/『流転の海 第一部』/『塩狩峠』
対象著者:村上春樹、安西水丸/宮本輝/三浦綾子
対象書籍ISBN:978-4-10-100137-1/978-4-10-130750-3/978-4-10-116201-0
(1)『日出る国の工場』
この本の内容について、私は数ヶ月に一度は必ず、と言っていいほど思い出す。単行本として出版されたのが1987年、私は十七歳だった。村上春樹さんとイラストレーターの安西水丸さんがさまざまな工場を巡ってレポートするという内容になっている。
高校時代というのは、どうしても社会が小さい。それが、日本のさまざまな地域の、日頃はなかなかお会いしない人たちについて、コミカルとシリアスが上手に入り交じった、村上さんの素晴らしい文章(と安西氏のすてきなイラスト)で突然、知ることになったのだ。ぐうっと世界が広がって、自分が急に大人になったような気がした。

今回読み返して、私はこの本である意味初めて、「かなり奥深いところの、大人の本音と建て前」に立ち会ったのだ、だからあんなに感動したのだ、と思った。
また、このエッセイ集はあの『ノルウェイの森』の半年前に出版されている。つまり、この本のために村上さんと安西さんが日本中の工場を回った時、世間の人々は村上春樹さんがあの『ノルウェイの森』の作家だと知らずに触れ合ったのだ。実際、文章の中にも「見も知らぬ自分たちに皆さん、親切に話をしてくれた」というような表現が何度か出てくる。
だから工場の人たちは、というか、村上さんが話を聞き出し、その文章の中に現れた「工場の人」たちは「本当はこう言わないといけないって会社からは言われているんですけど、実際はこうなんですよね」と正直に包み隠さず話してくれている。「大人は、決して悪い人ではなくても、いろいろあって、でも頑張っているんだな」と高校生の私は彼らを面白くて愛おしい人たちだと知ることができた。
さらに、今の日本にもつながる構造的な問題がこの時すでに現れている。
例えば、日本の某超有名鞄メーカーは少し前まで、あの造り、あの素材としては破格の安さだと言われていた。なぜなら、作っているのが六十代、七十代以上の縫製職人で、作業費は安いものの、年金だけで食べていけるし、皆、「自分は◯◯カバンを作っているんだ」というプライドで請け負ってしまう。だから、国内の他のバッグ工房は太刀打ちできない、という話があった。
それを聞いた時、私がまず思い出したのがこの本の「コム・デ・ギャルソン」を作る工場だ(実際には下町の家内制手工業の一軒家)。ここに出てくる、「コム・デ・ギャルソンを作ってるんだよ」と旅行先の飲み会で自慢する初老の男性と、「◯◯カバンを作ってるという誇りで安い手間賃でやってしまっている人たち」がちょっと重なったのだ。
あの頃すでに「善人のやり甲斐や好意に甘えている」現在の日本の構造的な問題が含まれていたのを、バブルが始まる少し前の高校生の私は気がつかなかった。
(2)『流転の海』
宮本輝さんも若い時にたくさん読んだ作家さんだ。新潮文庫には『螢川・泥の河』『錦繡』など素晴らしい作品がたくさんあるが、私は『流転の海』を挙げたい。

粗野だけど、生命力に溢れる松坂熊吾(著者の父親がモデル)の半生を描く長編小説だが、現代の目から見ると、ちょっと乱暴すぎるところもあるかもしれない。だけど憎めない。
宮本さんは時々、とても大切なことを小説で教えてくれる。男の「学歴の低さと身長の低さ」は何があっても、どんなに酔っていてもからかってはいけない、なんていう言葉は最近の作家にはちょっと書きにくいことだろう。だけど、二十代の秘書時代、この言葉にどれだけお世話になったことだろうか。
また、この松坂熊吾の生まれ故郷となっている愛媛県の一本松村は、私の父の生まれ故郷の隣村だ。
(3)『塩狩峠』
実を言うと、最初はこの本と井上靖『しろばんば』、下村湖人『次郎物語』の三冊で「明治大正の男の子は大変だなあ」という原稿を書くつもりだった。

なぜか、皆、複雑な家庭環境で、母親不在、なのに、お祖母さん(しろばんばでは曾祖父の二号さん)の性格がきつい。嫁の立場は弱いけど、それだけをもって戦前は「男尊女卑」だったとは一概に言えないほど、祖母の存在と癖が強い。それも一因なのか、皆、性に対して臆病だったり苦手意識を持っているのだが、ちょっと気を抜くと年上男性にむりやり吉原に連れて行かれたりする。
こういう古い小説を読んで、戦前の「男の子」のつらさを知るのもまた、小説の楽しみではないだろうか。
(はらだ・ひか 作家)





