書評

2026年10月号掲載

闇のなかで、透明で苛烈な火を灯して

堀江敏幸『ロベール・クートラスをめぐる断章群』

朝吹真理子

対象書籍名:『ロベール・クートラスをめぐる断章群』
対象著者:堀江敏幸
対象書籍ISBN:978-4-10-447107-2

 夜、ひさしく使っていなかった砥石を出して、たどたどしく、包丁を研ぎはじめる。研磨される音と、その砥石から出てくる砥汁のあおみがかったやわらかくもかんじる灰色をみてみたいためだった。本書を読み終えた心の震えがおさまらず、何かしないと眠れなかった。謎の多い画家ロベール・クートラスの絵と偶然出会い、強く惹かれた著者が、彼が遺したカルトと呼ばれる小さな絵を慎重に並べるように一本の線でひけるような評伝には決してせず、約十年ほどかけて取り組んだ断章形式の作品で、筆致は澄み切り、苛烈さもあって、気持ちがこみあがってきて、どうしていいかわからず、深夜の台所の蛍光灯の下で、ざりざり乱暴な音をさせながらなまくら包丁を研ぐことしかできない。
 カルトの色を表現していることばを思い出しながら包丁を研いでいると、水に濡れた手に、刃に、砥石に、灰色がついてくる。砥汁は曇天にもみえると思っていた。手を黙々と動かしていると、読んでいた文章のいくつもの光景が思い浮かぶ。クートラスは、困窮しながらも、身の回りにあるボール紙などの素材で、小さな厚みのある陶器のようにもトランプにもみえる、ふしぎなカルトをつくりつづけた。
 ユーモアと哀しみが同居した細長いカルトは、ぱっとみるといつの時代に作成されたものなのかわからず、1930年生まれの画家なのに、彼がつくったものは、パリのクリュニー美術館にある中世の道具のひとつにもみえる。
 カルトをみていると、一人の人が生み出す芸術のなかに、無数の、かつて生きていた人の痕跡を同時にみる。直接手にしたひとにしかわからない「骨と骨があたってこつんと響くような、固められた灰の手応えがある」という、音。わたしは著者のことばでしか手触りをしらないのに、カルトを持った記憶があるような気がしてくる。
 著者は、はじめは透明な探偵のように墓石を探して訪ねる。案内所でたずねても、クートラスの国籍もしられておらず、職員が「サンドイッチを半分残したまま重い腰をあげ」て、少し面倒くさそうに探しはじめる。墓石からして辿るのが難しく、彼自身の人生には虚実のはざまの空白が多い。そのとき謎の多い人物を知るための補助線として、著者はたくさんの書物の引用をする。その文章の全てが地文と滑らかにつづく。引用文はとうぜんクートラスについて言及されているわけではないのに、それでも、その引用しかありえないというくらいに、ぴたっと彼のすがたと呼応して並置される。本書「IX ジョーカーの謎」では、著者が、クートラスの今後の制作につながる公募の賞がじっさいにあるのかを調べるために古書目録などをみながら「ル・ジョリー・ジョケール」というカード愛好家雑誌を探していて「現物に出会うまで気長に待つしかなかった。そして、なんの成果も得られないまま五年近くの時が流れた」と、著者の時間もさらりと五年も過ぎていたりして、おそろしい。
 何度も思い出してしまうのはクートラスの第二次世界大戦中のドイツでの生活の話で、家の働き手の男が収容所に移送され、母と子で生きねばならず兵士が家に入ってきて「少年は見なくてもいいものを早くから見てしまったことになる」。それが関係しているのかクートラスのカルトで描かれる滑稽なまでに突き出された女の臀部のカルト、ギロチンの生産地だったというティエールの刃物工場の地獄谷の景色、著者自身も愛好し、少年クートラスが夢中で握って木彫りをつくっていたときの安価な刃物のオピネルのナイフ、クートラスは青年時代、砥汁のような色の曇天も多いフランス各地で石工職人として教会修復の仕事にも携わっている。
 おぼつかない私の研ぎ方でも、同じ動きを繰り返すことで、刃先がだんだんと鋭く光ってくる。幼少期があたたかなものではなかったからこそ彼はつくることに熱中する。
「一見明るい光を放っているカルトの束にはじめて触れたとき私が感じたのは、中世の塔のような奥深い「闇」から伝わってくる心の微動だった」
 クートラスはそのような心の塔に閉じこもって描いた作品群を《僕の夜》と呼んだ。クートラスにとって長らくカルトは「沈んだら沈みっぱなしにならないよう、かならず戻ってくるための護符」だったが、路上に落ちていたサラダ菜を踏んづけて転倒したことをきっかけのひとつに、ぎりぎり保っていた精神の均衡が崩れて、闇に沈んでいってしまう。
「彼の仕事は作品世界を享受する側の心身の状態や内的な成長の深さによって相貌を変える」と著者が書いたように、この本は、じぶんの心の持ちようでいくらでも様相がかわってゆく本だと思う。
「仕事というのは、出会いの瞬間までじっと待ちつづけ、見えない準備を重ねること」というクートラスと著者の澄み切った文章の隙間から漏れてくる火の点ったことばが忘れ難い。著者自身が芸術と孤独に向き合い「共闘」している。本書は、孤独になにかをつくるひとの部屋に置いてあってほしい。この本はよるべない創作の護符になる。

(あさぶき・まりこ 作家)

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