書評
2026年10月号掲載
「はずれ者」への慈しみ
永井紗耶子『長崎出島かれいどすこうぷ』
対象書籍名:『長崎出島かれいどすこうぷ』
対象著者:永井紗耶子
対象書籍ISBN:978-4-10-352024-5
私が永井さんの小説を初めて手にしたのは、三年前のことだ。
その当時の私の新刊と永井さんの小説が、さる文学賞の候補になったからだ。
で、永井さんの本を読ませて頂いた。その『木挽町のあだ討ち』を三分の一ほど読み進んだところで、
「ヤバっ。これ、おもろ」
とつい声が出てしまった。ミステリー要素のある構成の巧みさもさることながら、作者の筆の乗りが尋常ではない。特に「衣装方のほたる」が語る善悪の彼岸や、「狂言戯作の金治」が独白する、人が生きることへの本質的な無意味さや虚しさには、ただならぬグルーヴ感が漂っていた。
私が何故に小説を読むかと言えば、このような「外れ値」の感覚を味わいたくて読む。それは小説という表現形式でこそ、最も強く表せるものだと感じる。理詰めで生き方を思索したいのであれば、哲学や思想書を読めばいい。この現代資本主義社会でより実利的に生きたければ、銭と投資の本質を説いた経済学の本を読めば、少なくとも実践知識としてはほぼ事足りる。
けれど、それでも人は満たされない。正しい答えだけでは満足できない。ついて行けない。その満ち足りない心のために、小説という表現媒体の娯楽の本質はあると個人的には考える。
本書『長崎出島かれいどすこうぷ』にも、この人の世の「外れ値」の宿命を持った人々が数多く登場する。それぞれに己の抱える「はぐれた」感覚に悩み、苦しみ、あるいは諦観の念を抱えながら生きている。
舞台は江戸時代後期の、長崎の出島の話だ。
主人公の光太は、異人相手の遊女の子として育った。ただし、実父は異人ではなく、奉行所の通詞であった。その父は光太がほんの子供の頃に行方不明になり、さらにはその後、母も誰かの手によって殺された。孤児になった光太の親代わりとなったのは、井福屋の勘助である。
井福屋で育った光太は、両親の謎を探るために内通詞になった。内通詞とは(母が殺された)出島に出入りを許されている、商いのための蘭語の通訳のことである。この仕事を通じて、母の死と行方不明になった父の真相を知ろうとする。
そして出島で仕事をするうちに知り合っていく者たちも、一癖二癖ある「はずれ者」ばかりだ。オランダ商館でいつも吞んだくれている中年の才次郎、オランダ人と日本人遊女の間に生まれ、自らも異人相手の遊女となった琴音(彼女もまた、両親をほぼ知らない)、そして商船の乗組員で、その実はオランダ人たちの奴隷であるバタビア(現在のインドネシア)人のリコ。彼らもまた、それぞれが心に傷を負っている。人には言えぬ秘密を抱えて生きている。そして彼らの持つ秘密が、話が進むにつれて光太の両親の謎に絡み始める。その意味では、柔らかい謎解きの要素を本作も持つ。
だが、私はその話の間に漂っているそれぞれの登場人物の感覚のほうに、むしろ惹かれる。
例えば才次郎は光太にこう言う。
「ここ(出島)は、間ばい。内と外の間。異国との付き合いは、(その時々の)お上の都合で法も変わる。(中略)その一つ一つに振り回されていては、異国とお上の間で潰される。だからゆらりゆらりと身を躱すしかない。善と悪の間も曖昧さ……」
オランダ人奴隷のリコもまた、こう考える。
(奴隷が)明日、来月、来年、いや十年先まで生き残るためには、切り捨てるには惜しいと思われなければならない。他の水夫たちの目を盗むように、字を学び、数を覚え、楽器を覚え、(中略)オランダ人の商人たちから重宝されるようになった。
その上で光太に告げる。
「そうして、(自分の)今があるんだ」
一見は清く正しく生きているように見える勘助でさえ、荒み切った琴音の母を阿片臭のする貧民窟で見つけた時、こう光太に語る。
「お前の目には、ここにおる連中が化け物んごと見えるかもしれん。ばってん、ここにおっとは同じ、人さ。金に、欲に、目が眩んだだけ……そしてこんな所に澱んで溜まるとさ」
勘助は通りを行き交う入墨者や無宿者、安女郎を見ながら、さらに言葉を付け足す。
「間違えるな、光太。おいたちは正しいから咎めがないんやない。上手くやっとうだけたい」
こうした言葉の意味合いも、光太の両親の謎の本質に深く関わってくる。
そして本作にもまた、弱き者、生きづらき者への慈しみの心が随所に滲み出ていた。繰り返すが、人は正しさだけでは生きられない。そしてこの優しい視点こそが、永井さんの書く物語の魅力なのだろうと感じる。
ちなみに三年前は永井さんも、そして私も、目出度く受賞の運びとなりました(笑)。
(かきね・りょうすけ 作家)

